海辺を歩く

 ドライブはもう終わりかと思っていた。


「帰る前に、もう少しだけ連れて行ってほしいところがあるんです」


 戸鞠さんの指示通りに車を走らせること10分。

 店も民家も少ない狭い道路を進んだ先には、海。

 堤防に沿った斜めの白線内に駐車する。


「まさか、泳ぐとか?」


 まだ夏とは呼べない微妙な時期だ。

 戸鞠さんは一瞬目を丸くさせ、今度は可愛らしく笑う。


「そんなことしませんよ。少しだけ、歩きたくて」


 堤防の短い階段を上がると、一気に波の音がハッキリ聴こえてきた。

 お世辞にも綺麗とは言えないが、あと少し時間が経てば水平線に落ちる太陽。

 砂浜へと下りて、ゆっくり踏み歩く。

 前を進む戸鞠さんの背中……智里がそこにいる。

 潮風に揺れる毛先も、首筋も、横顔も、そっくりそのままで、戸鞠さん自身が不安になるのも、分かる気がした。

 俺も、常務も智里を知っている。

 愛情の差はあるが、俺だって……。


「ここの海はなんだか懐かしい感じがします」

「お父さんとよくここに?」

「いえ、匂いが違いました。もっとなんでしょう、温かい、優しい匂いです」

「なんかぼんやりしてるね」

「はい、曖昧で、ハッキリ覚えていません……波の音とか誰かの声とか、記憶に残っていて、悩みがあるときに来ると、何故か安心するんです」


 振り返ってこちらを見る。

 輪郭が薄れる君は、智里か戸鞠さんか……。


「…………お母さんじゃないかな」

「母、なんでしょうか」

「多分だけど」


 智里が赤ん坊を抱いて、海辺を歩く姿が、幻覚のように映る。

 心臓目掛けて、鋭く尖った物がいくつも突き刺さった。

 痛みよりも強烈で、心が張り裂けそう。


「五十嵐さん」


 細い声と一緒に、どこか悲し気な表情が近づく。


「なに?」

「ハンカチ、どうぞ」


 何故か水色の柔らかいハンカチを手渡された。

 不思議に思いつつ、ハンカチを見下ろすと同時に、生ぬるい雫が布を濡らす。


「あれ……あれー」


 可笑しいな、感覚が麻痺してるみたいだ。

 戸鞠さんは眉を困らせながらも、微笑えんでくれた。

 目元を拭いて、俺なりに笑みを返す。


「ありがとう、ハンカチ洗って返すよ」

「持ってると秘密のデートをしてるのが透夜君と奥さんにバレちゃいますよ」


 不意に悪戯っぽくそんなことを言うから胸が騒ぐ。

 冗談だって分かっていても嬉しいもんだ。

 

「それも、そっか。今何時だっけ」

「16時半です。もう、そろそろ帰らないとですね」


 名残惜しい口調に聞こえてくる。


「もうちょっと海辺を歩いて帰ろう。せっかくのデートだし」

「はいっ」


 素直がよく似合う笑顔で頷き、今度は並んで歩いた――。

 

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