味がしない

 あの時すぐに、思い出せばよかった。

 人事部長らと離れた席で、戸鞠常務取締役と2人きりという地獄。

 頭から足先まで清潔感に溢れて、シャープな顎、渋い声を持つ男前がいる。


「お酒はどうされます? 五十嵐さん」

「大丈夫です……戸鞠常務はいかがです?」

「お恥ずかしながら私は一滴も飲めなくて、それなら、ウーロン茶でいいですね」

「はい」


 はぁぁあぁあ、ただ飲み食いするだけの時間だと思っていたのに……。


「五十嵐さん」

「は、はい」

「私のこと、覚えていますか?」


 真っ直ぐ、曇りのない瞳で訊ねてきた。

 咄嗟に目を逸らしてしまう。


「式で、会いました、ね」


 具体的を濁して答えた。


「えぇ、彼女とは幼馴染でした」


 そんなこと、言ってたかな。

 冷えたウーロン茶が届く……グラスの中で透き通った濃い琥珀色が氷と交ざっている。

 さっきまで平気だったのに、異常に喉が渇いてきた。

 一口飲む。冷たい感触はするのに、あんまり味がしない。


「あー、そ、そうでしたね」

「もう10年以上前の話ですから。私も結婚して、子供が3人いるんです。上が男の子で、あと下は女の子です。五十嵐さんは、確か、すぐ再婚されましたよね?」


 分かっているくせに、棘を刺す。


「はい……息子が1人。なんでまたそんなことを……」

「責めているわけじゃないんです。彼女は、恨んだりするような子じゃありませんでしたから。きっと今も五十嵐さんを愛していますよ」

「……何が、言いたいんですか?」

柊木ひいらぎ智里さとりは、16年前に亡くなりました。ずっと、伝えたかったんです」


 躊躇なく耳に入ってきた言葉によって、全身が固まる。

 体の真ん中からぽっかりと大きな空洞ができたみたいだ。

 なんで今になって、16年前?


「智里に口止めされていましたが、色々ありまして」

「……」

「五十嵐さん、大丈夫ですか?」

「いや、大丈夫、じゃ、ないかもしれない……少し時間が欲しい」

「あぁ配慮が足りず申し訳ありません」


 本当だよ。

 俺はずっと、これまでの間、彼女が、智里が生きてこの世界にいるって思っていた。

 それがいきなり、智里がこの世からいなくなっていたって、今、知ったんだぞ。


「後日、続きを話しましょう。私は先に懇親会の席に戻ります」


 戸鞠常務は席を離れ、人事部長たちがいる席へ行ってしまう。

 渇きを潤したいのに、飲んでも飲んでも、ウーロン茶は冷たいだけ。

 味がしない、潤えない、この空虚感さえ流せない。

 智里……俺が選んだのは間違いだった?

 妻が妊娠したから、君を見捨てるしかなかった。

 妻は智里だったのに……――。 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る