気まずい空間
彼女の顔を今もよく覚えている。
あんまりハッキリ言わない子で、大人しくて、ずっと一歩後ろを歩く。
澄んだ瞳と少し丸みのある輪郭、か弱い体。
最後の寂しそうな表情は何か言いたげだったが、俺は、別れを選んだ。
選ぶしかなかった。
もう、妻のお腹に赤ちゃんがいたから。
彼女は今頃、どうしているんだろうか……。
「……」
ソファに座って週末を過ごす。
息子は荷物持ちを任せられ、妻と買い物に行っている。
じっくり話し合って決めたことだ、今さら、思い出しちゃいけない。
ふと、インターフォンが鳴った。
居留守を使いたいところだが、一応顔だけ確認しよう。
モニターを覗く。
「う」
品よし姿勢よしでカメラを見ている例の彼女が……戸鞠かなえ、さんが、いる。
どうする? 居留守使った方がいいのか? ぐるぐる頭が回る。
「……うぅ」
とりあえずいないって言っておくか。
なるべく落ち着きながら、こほん、と整える。
「はい」
『あ、あの戸鞠と申します。
「あー今、うちの妻と買い物に出かけていて、いなくて……もうちょっとしたら帰ってくるんだけど」
『そうでしたか、すみません早く到着してしまって、外で待っていても大丈夫でしょうか?』
「え、あぁー」
外で待たせる……待たせたら、俺、息子に嫌われるか? 妻に何かチクりと言われるか? せめてリビングで、待たせた方がいいんだろうか。
「んー……あぁー」
返事待ちの彼女は、可愛らしく不思議そうに傾げている――。
「そうだな」
サンダル……はやめとこう、せめて外出用の靴を履こう。
シャツじゃなくて、ちゃんとアイロンをかけたポロシャツ、ジーパンじゃなくてスラックス。
ついでに伊達メガネ。
髪に寝ぐせは、ついてないな。
よし、呼吸を整え、扉を開ける。
「ど、ども。いつも息子が世話になっています」
「いえ、こちらこそ、あの、すみません」
見るからに戸惑っている。
薄手のブラウスに、ふんわりとしたスカート。
バッグは高価そうなレザーを提げ、小さな指先を添えている。
首元には、シルバーの
「さすがに透夜がいないのに上げると、多分拗ねるから……とはいえ一人待たせるのもなぁと」
「ありがとうございます」
玄関前で待つことを選んだが、話すこと、ないな。
何より気まずい、やっぱり、気まずい。
戸鞠かなえ……横顔も、心なしか声も似ているような気がする。
「あの」
戸鞠さんの細い声が届き、
「はいっ?」
思わず裏返った。
戸鞠さんが首を上に動かす。
「普段、透夜君とどんなことを話してるんですか?」
「え、話、あーと、えぇーと」
急に何かと思えば、息子とのやり取りについて。
訊かれてもなぁ、正直、ここ最近10秒以上会話が続いたことがない。
挨拶と、食卓で、「普通」といった返事しか聞いていない。
相談事も妻にしているみたいだし、完全ハブられている。
寂しいような、むなしいような……。
思い出せ、透夜がまだ幼児か、小学生だった時の記憶を――。
「あー……すぅー……戦隊モノの話、とか」
なんとかレンジャーの真似をして、ブルーのクールなところが好きとか、言っていた気がする。
「なるほど、戦隊モノの話をすれば……他にも、聞かせてもらえませんか?」
戸鞠さんは関心した相槌を打ってくる。
「他って言われてもなぁ」
思い出せ、息子との遠き日の交流を……――。
『おとーさぁーん』
『あーどうした透夜』
『むし、むしがでたぁ、こわい』
『あぁー虫? そんなの放っとけば勝手にいなくなるよ、悪いけど昨日夜遅くまで仕事してたから、眠たくて、眠たくて……ぐぅー』
『お、おと、う、さーん』
――してなかった。
「…………どうしてまた、そんなことを?」
なかったとは言えないので、とりあえず訳を聞こう。
「それは、その」
戸鞠さんは言葉を濁す。
返事を待っている間に、エンジンの音が聴こえてきた。
助手席の車窓から、彼女が待っていたことに対する大きく開いた瞳孔と、続いて最大限に憎悪か嫌悪を含めて睨みに変わっていく息子の目。
俺との関係性は、あの眼差しがよーく、よーく、詳細を言わずとも物語っていた。
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