第16話 ビューティフル・グッバイ
人から頂いた物はちゃんと食べないと駄目よ、というのが親から聞いた礼儀だが、それはあくまでまっとうな食べ物の場合だ。食べ物かどうか怪しい物を渡されて、それでもちゃんと食べきるなんて事はまた別の話だ。
一体どういう覚悟が彼女にここまでさせるのだろうか。
私に対する恐怖か? それとも親愛? わからない。私からすれば彼女とは出会って一日も経たない間柄だ、何故そこまで出来る?
ただ一つ言える事が出来る。
ここまで彼女にさせておいて、これ以上気を遣わせるようであれば私は知的生命体としても前世人間としても最低である。
まあ、あれだ。私の負けだ。何か勝負をしていたか、とか、そういう話ではなく。
手を伸ばして彼女の頭を撫でる。伸びてくる巨大な指、鋭い爪が生えているそれに彼女は怯える様子も見せず、なされるがままに撫でられている。気持ちよさそうに金の目が細められる。
……なんていうか。色々考えているつもりだったが、少し独りよがりが過ぎたようだ。人間関係はまず信頼から。彼女はその信頼を得ようとこちらに大きく踏み出してきたのだ。私は素直にそれを受け止めて喜ぶべきなのだろう。
「グルルゥ……」
『ふふふふ、くすぐったいですよ、神獣様。ふふふ』
なんだかおかしそうに笑う少女。
最初、この少女の事を犯罪者の可能性もある、だなんて見ていたが……多分、酷い冤罪もよい所だろう。
人間というのは、無関係の相手の前でこそ本音が出る。言葉が通じない、違う種族の生き物とあればなおさらだ。私のようなスピノサウルスの前でも礼儀を逸せず、理知的な対応に努めるこの子が悪い人間とはとても私には思えない。
見た所いい所のお嬢さんのようだし、お家騒動かそのあたりで追われていたと考えるべきだろう。そう考えると色々と納得がいく、ようは私の疑心暗鬼だった訳だ。
ならば、次は私が彼女の信頼を得られるよう歩み寄るべきだ。今更遅いかもしれないが……それでも、やらないよりはずっと良い。
私は自分の声帯を意識しつつ、息をかすれるように絞り出した。上手く発音できるといいが……。
「シュ……シュシュ……ピィッ……ヴォ……シュピッ」
『? どうしました、神獣様。変な吐息鳴らして』
「シュ、シュピ……ヴォッ……」
よし、なんとかいけそうだ。前世の名前は無理でも、この肉体のニックネームぐらいは。
ちょいちょい、と自分を指さしながら、私は引き攣りそうになる喉を堪えながら声を絞り出した。
「シュピ……ノヴォッ。シュピ、ノヴ……」
『……? 自分を指さして……うーん? シュピ、ノヴ? え、違う?』
「シュ、ピ……ノ゛。スゥ、ピィ、ノ……ッ!」
『えーと……「スピノ?」』
伝わった! 首をブンブン縦にふって、自分を指さして繰り返す。
「シュ、ピ、ノ。ス、ピ、ヴォ」
ひたすら繰り返す私に、首を傾げていたコウモリ少女だったが……やがてその理由に思い当たったのだろう。ぱあ、と花咲くような笑顔を浮かべて、私を指さして叫んだ。
『「スピノ!」 貴方の名前なのですね、「スピノ!」』
そう。仲良くなるにはまず名前から。そして、親しくなりたいと思うなら自分から名乗るのが筋というものだろう。
翼をバタバタさせて私の周囲をかけまわりながら、スピノ、スピノと連呼する少女。
と、彼女は不意に足を止めると、私の前で今度は自分を指さして言った。
『「オルタレーネ」! 私の名前は、「オルタレーネ」ですわ!』
「ヴォ、ヴォル、フェ……? ヴォルゥ、フィーーー……」
『そうそう、そうです! ちょっと発音が難しいのかしら……? じゃ、じゃあ……「ヴォル」でいいですわ、「ヴォル」! いけますか、「ヴォル」!』
「! ヴォル……ヴォルル。ヴォル……!」
やはり賢い子だ。私が声帯の問題で発言できないのを見てとって、即席で愛称を変えてきてくれた。大丈夫、ちゃんと名前は分かっているのに、それを伝えられないのがもどかしい。
彼女の名前はオルタレーネ。この世界で初めてできた、私の知人。
お互いに、相手の名前を連呼する。なんだか無性にそれが楽しかった。
「ヴォル……」
「ふふ……スピノ! スピノ!」
それからしばらくの間、私達は互いの名前を呼び合って、意味もなく笑い合っていた。
◆
スピノとオルタレーネ。
名前を伝えあってから、私達の距離は非常に縮んだような気がする。
互いの壁がある程度取り払われたせいか、話す事も増えた。相変わらず私は言葉をしゃべれないが、喋れないだけで理解している、と向こうが認識している事は多い。オルタレーネはいまいち返事が要領を得ない私相手に、この世界の単語を根気強く教えてくれた。流石に文法はよくわからないものの、単語の意味さえ分かれば会話の趣旨ぐらいは察する事が出来るようになる。
オルタレーネ先生には感謝しなくてはいけない。
また、彼女の事についても少し理解する事ができた。
彼女は、アルカレーレ人という人種らしい。ここからずっと北の方から来た、とか、お姫様、ともいっていた。何かしらのお家騒動で追われていた、という見立てはおよそ間違っていなかったらしい。何やらギレル、という御付きがいたそうなのだが、彼とは逸れてしまったようだ。……ギレルとやらが、どうなってしまったのかは想像に難くない。
また、お姫様にしてはオルタレーネは野宿生活に随分と手慣れていた。汚れた服にもあまり頓着しないし、私がため込んでいた漂流物から針と糸を見つけると、チクチクと手慣れた様子で布を縫って衣服を誂えてしまう。もともと、あまり良い扱いを受けていないのは明確だ。どうにも彼女の種族は、追っ手たちのようにコウモリ顔が普通らしく、人間のような彼女は仲間の中でも非常に浮いていたのだろう。
そういった情報から彼女のバックボーンが推察できるだけに、最終的に彼女をどうするか、というのは悩み者だった。
なんせ私にはこの世界の情報が全くない。近隣に住んでいる霊長は彼女とは違う人種のようだが、彼らが排他的か融和的かさえわからないのだ。こんな事ならトラブルを承知で意思疎通を図っておくべきだったが、もはや後の祭りだ。一応、彼女が逃走先に選んだのだから、そう排他的ではないと思うのだが。
かといって、いつまでも彼女の身元を預かっておく訳にもいかない。現状オルタレーネは気にしている様子はないが、この神殿跡はそもそも人が住めるような環境ではない。食料も偏っているし、風雨を完全にしのげない。それでいて周辺には危険生物がワンサカいて、環境の改善も難しい。人間というのはあくまで自分達に不適合な場所を住みよく変える能力が売りなのであって、環境の方に適応する能力はあまり高くない、というのが私の認識だ。
今は大丈夫でも、風邪をひいたりして体調を崩した時に、そのまま立ち直れない恐れがある。野宿生活では小さな病が命取りだ。
色々考えても結局、私一人ではよい考えが思いつかなかった。
となると、本人に意見を聞いてみる他はない。
『私がどうしたいか、ですか』
日も暮れた夜半。焚火の炎を囲みながら、私はオルタレーネとその事について意見を重ねていた。焚火の傍らには、いくつかの小石と布切れ。言葉が話せない私がオルタレーネに意思を伝えるには、小道具を使ったジェスチャーが必要不可欠だ。幸いにしてオルタレーネは直感じみた閃きのよさで、私の拙い意思疎通を拾ってくれるので時間こそかかるが割と正確に意思疎通ができている。
『私はスピノ様さえよければずっとここに住まわせて頂きたいのですが……貴方はそれがよくないと思っているのですね?』
オルタレーネの確認に、コクコクと頷く。続いてオルタレーネを示す小石を両手で抱きしめ、決して追い出したいという訳ではない、大事に思っている、というのを伝える。
『え、えと……っ、まあ、はい。スピノ様が私を追いだしたいわけではない、というのは存じ上げています。嬉しく思います。でも、だったらそれで良いのではないですか? 外の世界なんて、関わってもよい事なんか何もありませんよ?』
ふっ、とオルタレーネの目に影が差す。
普段は明るく振舞っているが、国を追われた揚げ句腹心まで失ったのだ、彼女が世の中に絶望してしまう気持ちは痛いほどわかる。奪うだけの世界なんて距離を置きたい、というのも。だがそれではダメなのだ。
人の望むモノは人の中にしかない。裏切られ軽んじられ虐げられても、人は社会から離れて生きていく事はできないのだ。
『……いえ、これはただの我が儘ですね。いつまでもスピノ様にご迷惑をおかけする訳にもいきません……』
どうやら、私があまりよく思っていない事だけが伝わってしまったらしい。
別に迷惑でもなんでもないのだが、それでもやはり彼女がここにずっと住む、というのは良い事ではないように思う。社会復帰はできれば早いに越したことはないのだ。一年、二年と時間を置くほどに、かえって社会に戻るのが辛くなってくる。傷をいやせばいいという物ではないのだ。むしろ傷を癒し、心身共に健全になればなるほど、再びの傷は膿んで痛む。まだ傷の痛みが疼いていても、だからこそ新たな傷に鈍感でいられるのだ。
生きれば生きるほど、傷つかざるを得ない。私はそう思っている。
『明日。明日、ここを出ていきます。ですからどうか、それまでは私をここに置いておいてくださらないでしょうか……?』
◆
翌朝。
私はオルタレーネを近くの街まで連れていくべく、荷物をまとめていた。
まさか手荷物一つ持たせずに送り出す訳にもいくまい。湖で拾い集めた日用品のうち、使えそうなものと、神殿に僅かに残っていた貴金属類を風呂敷に纏める。この世界の資源価値とかはまるで分らないが、金とかそのあたりの金属類の価値が低いという事はあるまい。そうでなければもっと違う使い方をされているはずだ。用途が似通っている以上、価値も近いはずである。
貴金属類に関してはオルタレーネは最初ひどく遠慮して断ってきたが、なかば無理やり詰め込んだ。彼女自身、一文無しである事への自覚はあったようで、無理やり持たせればしぶしぶ納得したようだった。
『このお礼は必ず……』
別にそういうのはいいんだけども。もともと私の物でもないし。この神殿を建てた昔の人も、遠い未来で前途有望な若者の将来のために使われるなら本望であろう。
空を見上げれば、支度をしているうちに日が少しずつ昇り始めている。ちんたらしていたら昼になる、そうすればあっという間に夜だ。オルタレーネの足を考えると日のある内に街までたどり着くにはそろそろでなければ間に合わなくなってしまう。
神殿から離れると、不意に霧が立ち込めてきた。空も陰り、俄かに陽光が遮られる。
「あ……」
オルタレーネは思わず、といった体で声を上げながら、その不可思議な空模様の変化に見入っている。
最初、私も神殿付近に近づいたら急に天気が悪くなったと思っていた。だが、実際はそうではない。天気がどうであれ、神殿から一定距離離れる、あるいは逆に近づくと、こうして空が陰り霧で視界が閉ざされるのだ。その状態でまっすぐ進むと、必ず決まった場所に出る。
以前、出るときはともかく戻る時は迷わない、といったのはこのためだ。湖の中央付近、神殿のあるあたりに適当に泳いで霧さえ出れば、自動的に神殿の前に戻れる。
まるで逆・迷いの森だ。
初めて気が付いた時も思ったが、魔法にしか思えない。
『これは……本当に……? 信じられない、神代の奇跡がまだ残っているのかしら……?』
事前に話を聞いていたオルタレーネも俄かには信じられないようだ。霧を抜け、急速に晴天を取り戻した空模様に動揺を隠せない。この反応を見ると、例えこの世界に魔法に近い概念があったとしても、埒外の代物なのは間違いないようだ。
このあたりに住んでいる人は知っているのだろうか? ……多分知らないのだろうな、この湖でボートとかが浮いているのを見たことがない。まあ湖の底に10m級の巨大ザリガニがウヨウヨしていると聞いたら、正気だったらボートで繰り出そうとか思いもしないだろう。ただ、時々物資のつまった木箱が浮いているあたり、皆無ではないはずだ。このあたりではないだけで、どこか別の場所では船の運航が行われているはず。これだけ巨大な湖だ、横断できれば大きな儲けになるはず。
そのあたりを考えると、私の存在も大きな商売のネタになるかもしれない。後々のネタとして考えておこう。交渉材料は多ければ多いほど良い。
そうこうするうちに、目印の大木が対岸に見えてきた。毎日のように向かっているから、嵐で湖が荒れたりしない限りは道に迷う事もない。泳ぎにも慣れてきたので、タイムも縮む一方だった。
背中にしがみついていたオルタレーネが悲しそうに項垂れる気配が伝わってくる。だが、ここで情に流されてもいけない。現実的に考えろ。私と居ても彼女は不幸になるだけだ。
いつもであればそのまま岸部に上陸するが、私は手前で進路を変え、深みのある岸部に体を寄せた。周辺にでかいピラニアシーラカンスがいないかに注意しながら、オルタレーネが陸に上がれるように体を近づける。うんしょ、と小さい声をかけて、彼女が岸部に飛び移った。
私は上陸しない。
ここで私が出ていくと、却って監視達の警戒を招くだろう。
オルタレーネは岸部で躊躇うようにしばらく佇んでいたが、やがて思い切ったように振り返って私に笑顔を向けた。
これまでで一番の、花の咲くような笑顔だった。
『ありがとうございました、スピノ様。お命を助けて頂いたご恩、決して忘れません』
「ヴォル……」
『私は大丈夫です、新しい街できっとうまくやっていきます。落ち着いたら、またここに顔を見せに来たいと思います……よろしいでしょうか?』
それは願ってもない事だ。私は深く頷く。
どうせここの果実は私以外に食べる生き物もいないようだ。毎朝ご飯にくるのは変わらないし。
ちらり、と繁みの方に目を向ける。覚えのある顔が、草の間で何やらあわあわしているのが見える。……見た目で人は判断できないものだが、普段の仕草を見る限り彼らはそう排他的でも攻撃的でもない。あとはオルタレーネが上手くやっていける事を祈るのみだ。彼らの人種の認識が、私の思うそれよりも広く大雑把である事を願う。
右手を伸ばし、彼女に近づける。意図を察したオルタレーネが、両手で私の伸ばされた指の一つを抱きしめた。
体格のあまりに違う私と彼女。それでも、互いの間に信頼があると信じたい。彼女に意図が通じる事はないだろうが、一つだけ願をかける。
指切りげんまん。
お互い無事でまた会えますように。
私は名残おしくも指を離し、岸部からゆっくりと離れる。オルタレーネは、そんな私の姿をじっと見送っている。造花のような、整った綺麗な笑顔を浮かべたままで。
全く。正しい事をしているはずなのに、悪役になってしまったような気持ちになる。そこまで不安な気持ちを押し殺してまで、私に気を使わなくてもよいだろうに。やっぱり今からでも引き戻って、彼女を連れて帰ろうか、という気持ちになってしまう。
でも重ね重ね思うが、それは彼女の為にならないのだ。
私が岸部から十分に離れたのを確認して、繁みから霊長達が飛び出してくる。彼らはまるでオルタレーネを守る様に彼女の前に立ち、私へと強い視線を向けた。敵意や武器を向けてこないだけ、彼らは十二分に理性的だろう。
そして私が横目で確認できるギリギリの距離。微かに見える彼女が膝をついて泣き崩れ、霊長達が心配そうに声をかけて寄り添っているのを見届けて、私は今度こそ惹かれる後ろ髪を断ち切った。
大丈夫だろう、多分がつくが。
きっと数日も経てばこんな奇妙な出会いの衝撃も薄れ、彼女も新しい日常に馴染んでいくに違いない。生きるというのは慣れるという事だ。私もそうだった。
一時さらばだ、美しい人よ。
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