◈◈弐 失われた〈火〉

 長雨はまだ続く見込みらしい。

 スフィリは学院に翡翠のを申し込んだ。鎮痛剤より彼女のほうが手軽だし、何より経済的だ。

 異邦人の客員教授の懐事情は厳しい。


 元より彼女に拒否権はないが、ついでに雑用を押し付けても文句ひとつ言わなかった。

 スフィリは気難しい男で、何番目かの助手が辞めてから、後任を探してすらいない。先に送っておいた資料が山積みになった研究室を、翡翠は一人で片づけた。

 終わっても休まず事務作業をこなし、その傍らスフィリを癒すことも忘れない。


 冷たく柔らかな手は、彼をあらゆる苦痛から解き放った。

 わからなくなりそうだ。これは本当に、ただの石か。


「先生、〈緑の火スマラグド〉って何ですか?」


 ある日ふと、翡翠が尋ねてきた。

 一部では有名な話だから、どこかで耳に入れたのだろう。スフィリは人工生命工学の専門家としてこの国に招かれ、各地の学術機関を転任しているが、彼自身の目的は科学の探究ではない。


「君と同じ〈鉱族リートス〉だ。基質は翠玉エメラルド。……消息は不明だが、この国に渡った可能性がある」

「ずっとを探してるんですよね。どうして?」


 ――故郷を離れ、住みやすいとは言えない異国で、痛みを堪えながら。

 翡翠はすべてを口にしたわけではなかったが、意図は汲めた。何日かつきっきりでいれば多少は性格もわかる。


「復讐、かもな」スフィリはぽつりと呟いた。その瞬間、腕に触れていた翡翠の手が、ぎゅっと強張った。


「あれのせいで片足を失くした」

「……何があったんですか」

「君に詳細を話す必要があるか?」

「その……私にとっては、姉妹や兄弟のようなものなので」

「だったら尚更、この先は聞かないほうがいい」


 話は終いだと手振りで示す。翡翠は静かに、俯くようにして頷くと、空の茶器を手に研究室を出て行った。

 あとに残ったのは溜息と、疼痛だけ。



 スフィリの故郷にはエメラルド鉱山がある。鉱夫と彫金師の街で育ち、幼い頃から緑の宝石に親しんできた。

 成長し、人工生命学の道に進んだスフィリが鉱族に関心を持ったのは、自然なことだった。


 エメラルドの鉱族は存在しない。基質とする鉱物には一定以上の硬度と靭性じんせいが求められるが、内部に亀裂クラック内包物インクルージョンを抱えるエメラルドは、条件を満たさないのだ。

 混ぜ物で処理すればなんとか成型できても、まともに動かない。


 彼は情熱のすべてを注いで前人未到のわざに挑んだ。

 今から思えば狂っていた。なぜあれほど躍起になっていたのか、自分でも不思議なほど。

 何度も失敗を繰り返し、同業者なかまうちには呆れられもしたが――結論を言えば、完成した。


 世界でただ一人のエメラルドの人工生命体。

 その美しい輝きを、スフィリは〈緑の火スマラグド〉と名付けた。


 翡翠が人を癒すように、鉱族は特異な能力を持つ。

 しかし想定以上に〈緑の火〉は不安定だった。元より無数の傷を内に孕んだは、スフィリのような男には荷が重かったのだ。

 彼女は力を暴走させた。事故とはいえ、代償は脚一本だ。軽くはない。


 治療の間に預けた先で、誰かが〈緑の火〉を盗んだ。鉱族の中でも稀少種、それも女性型ならば蒐集家コレクターが高値をつけるからだ。

 異国行きの船に乗せられたことまでは突き止めたものの、国外となると調べる当てがなく、以降の消息は掴めていない。


 まだ壊れずにいれば、今は翡翠と同じくらいの年頃だろう。

 姿が変わっても逢えばわかる。唯一無二の美しい常盤緑エメラルドグリーンの髪や瞳を忘れるはずはない。



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