第2話 兄は妹に月になって欲しい

 

「あにうえ、あにうえ!」

「――。なんだ?」


 紫荻が家に来て早くも1年がたった。

 丁度俺が5歳と少しを迎えた秋の終わりごろ。

 自分の部屋でひらがなの練習中。あんまり俺に話しかけてこない妹が声を掛けて来た。

 父は仕事だし、母は弟を連れて買い物中だ。紫荻は昼寝をしていたので俺に面倒を頼み置いて行かれたはずだが、起きたよう。話し相手が居ないからなのか分からないが、珍しい事だ。

 持っていた鉛筆を机に置き、走って来た妹に向かい直す。


「あにうえ!」

「なんだ?」

「ききたいことがあります!」

「だから、なんだ?」


 片手に毛布、ただ眉をキリっと上げて俺の前に座る紫荻。

 ちょっとだけ感動する。1年前は近づこうともしてくれなかったから。

 こうしてまじまじと妹の顔を見るのも最近出来るようになった事だ。

 血も繋がっていないお兄ちゃんながら妹は中々の美人だと俺は思う。


 雪みたいな白い肌。綺麗に切りそろえられた亜麻色のさらさらとした髪。

 子供ながらにも整った顔立ち。

 小さく筋の通った鼻。長い睫と形の良い眉毛。

 唇はふっくらと柔らかく新鮮なイチゴの様。

 何よりも瞳だ。少し吊り上がったくりくりとした空の様に澄み渡った蒼い瞳。


 絶対に子役になれる。将来も美人確定なのは良く分かる。実に可愛い。


 そんな妹からの話を聞かない兄はどの世界にもいないだろう。

 どんな質問でも答えてやれる気がする。いや、答えてやれる。


「あにうえの右目はどうしてみえないのですか?」

「…………」


 ――。おっと妹よ。

 1週間ぶりに話してきたと思ったらセンシティブな問題に触れて来るじゃないか。

 いや、たしかに俺の右目は何時も白い眼帯で覆われて来るけど。普通は聞かない問題だぞ?

 あれかな、子供ながらの雰囲気を気にしないアレかな?


 しかし俺もさっきの言葉の手前、撤回は出来ない。答えてやろうじゃないか。


「うまれつきだ」


 どうだ。正直だろう。これで妹も納得したはず――。


「はやいな」

「……」


 え?

 なに、早いなって。なにが?

 思わずと紫荻を見る。

 目に映ったのは必死に腕を組み、悩ましげな表情のまま唸っている妹の姿だ。

 何をそんなに唸る必要があるのだろうか。産まれ付きだと駄目なのだろうか。

 そんな事を考えていると、紫荻が顔を上げる。


「あれですか。うまれてすぐに“てんねんとう”にかかったかんじですか?」

「どこで覚えて来たの?だめだぞ、そんなにあっさり聞いちゃ」


 思わずと口に出ていた。

 いや、コレばかりはしっかり叱って置かなくてはいかない。

 だってそうだろう、そんな傷口を抉る様な。俺じゃなかったら激怒物だぞ。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、紫荻は酷く不思議そうな顔をしていた。


「なぜですか?きいちゃいけないことですか?」

「聞いちゃいけないというか。――。まぁ、そうだな……」


 あまり気持ちの良いモノでは無いし。

 そもそも俺の右目が見えなくなった原因は知らないし、両親も教えてくれないし聞いたら母親に号泣されるから聞かないし。それをどうやって説明すべきか。


「とりあえず。かあさんには聞くな」

「なぜですか?」


 くそう!年頃の「なぜなぜ期」か?察してくれ!


「ああ、姫。ここにいらしたのですね」


 紫荻への問いに困っていると、声がした。

 顔を上げればウェーブの掛かった肩までの茶髪の少年が一人。部屋の入口に立っていた。

 こいつは小十郎だ。俺より10歳上の兄弟のお目付け役。兄弟のお目付け役なのだから、こうやって両親が不在の間の俺達の相手役でもある。どうせ母が学校帰りのこいつに連絡したのであろう。結局は俺と妹二人だけのお留守番は心配という訳か。


「姫。坊ちゃんに遊んでもらっていたんですか?」


 小十郎は吊り目の怖い顔には似合わず、優しげな表情を浮かべて紫荻の隣に座る。


「いいえ!しおぎはこどものあそびにはきょうみありません!」


 こっちが悲しくなるほどに言い切った。

 しかし小十郎は流石と言うべきか僅かな笑みを湛えた。


「そうですか。姫は子供の遊びには興味ないのか」

「そうです!しおぎはおとなですから!それからこじゅう。ひめよびはやめなさい!」

「それは出来ませんね。俺からすれば姫は姫なので」


 そう言いつつ小十郎は妹の頭を撫でる。

 これが大人の余裕と言う奴か?まだ小十郎こいつは14だけど。

 ちなみにだが、小十郎の姫呼びは時代劇かぶれの紫荻に合わせているだけだ。

 初めて会った時は姫呼びじゃなくてお嬢呼びだった。可愛がられているのだ妹は。


「それよりこじゅう」

「はい、なんでしょう」


 なんてことを巡らせていると、会話に飽きたらしい紫荻が話を変えた。

 アレ?なんだろう。嫌な予感がするのは。気のせいだろうか。

 そんな俺の気持ちも知らずに紫荻が口を開いた。


「あにうえのみぎめは、どうしてみえなくなったのですか?びょうき?けが?」


 ほら来た。だからそんなセンシティブな事を!

 小十郎だって一瞬で固まったぞ!完全にどう答えるか悩んでいる顔だぞ!

 取り敢えず、だ。フォローを入れておくか。


「小十郎。答えなくていい」

「こじゅう!こじゅう!!こたえてください!しりたいです!」

「言わなくていから」

「こじゅう!こたえてください!」

「――。」


 どうしよう絶句している。小十郎を困らせてしまった。ここは俺が折れるべきだったか!

 別になんで右目が見えなくなったかとか、理由は本当にどうでも良いと言うか、産まれ付きなのだから見えなくて仕方が無いと思っていると言うか!ただ母がこの話題を出すと妙に暗くなるから黙っていて欲しいと言うか!だから帰って来る前にこの話題を終わらしたいと言うか!小十郎、コレを治めてくれ!たのむ!――。的な勢いで思わず小十郎を睨んでしまった。


「ええっと――。坊ちゃんの右目は産まれ付きのモノとしか俺は知りません」


 届いた!


 流石だ小十郎!

 伊達に5年間、俺の世話をやっていない!

 これが戦国なら褒美物だぞ!

 流石の紫荻も二人から同じことを言われれば、引き下がるだろう。 

 現にほっぺを膨らまして不服そうな顔をしているが、食い下がってはこない。

 何故だか妙にほっとして胸を撫で下ろす。

 そんな俺を紫荻は一瞬だけ視線を飛ばす。すぐに小十郎に視線を戻し、指を差したのは直ぐの事。


「では、こじゅう!」

「はい?」

「おまえはこれから、あにうえのみぎめとなりなさい!あにうえのそばであにうえのかわりに、そのめでゆくすえを全てみとどけるのです!」

「「!!」」


 力強く「ふんす」と息をついて。

 子供とは思えない言葉遣いで、凛とした様子で言い切った。

 流石に驚く。余りのもその時の迫力も言葉遣いも姿も4歳の幼児の姿には見えなかったから。

 無駄に古風だけど。


 その場に静寂が流れたのは酷く当然の事だ。

 どれだけ経ったか、時計の針が部屋の中に唯静かに響く中。

 固まった俺の前で最初に動いたと言うか、表情を崩したのは小十郎の方で。

 自身に向けられた小さな手をやんわりと握りしめて、笑みを湛えて口を開く。


「ご安心を、姫。姫に言われずとも、元よりそのつもりです。政宗様に会った時から俺は一生着いて行くと、それが俺の宿命だと定めましたから。――俺は政宗様の右目です」


 ああ、そうだったな。そんな約束したのだったな。

 まだ2年ほど前なのに小十郎の言葉は懐かしく感じる。

 物心つく前から見えなかった右目。周りと違う事に酷く不貞腐れて引きこもりになった時、小十郎こいつと出会ったんだったな。

 くよくよと嘆いている俺に叱咤して、「だったら自分が右目になってやる」なんて子供のくせに自分よりガキの俺に誓ったのだ。

 アレは子供の俺を元気づける為に言った言葉だとばかり思っていたが、本気だったらしい。

 少しだけ笑みが零れる。あれから少しは明るくなったんだったな。俺は、なんて。


「そう、ですか」


 少しの間。そんな間を壊す様に紫荻が言葉を零した。

 今、妹が何を考えているかなんて分からない。近づいて様子を覗き込むも、驚いている様にも見えない。ただ何か悩んでいるかのような表情を一瞬浮かべて、ソレで心から安心したように妹は小さく笑ったのだ。


「そうですか。あんしんしました」


 何処か嬉しそうに寂しそうに、大人も顔負けの凛とした月の様な笑みで。

 綺麗だと思うのはきっと可笑しい事じゃない。見とれてしまうのも、きっと可笑しい事じゃないはずだ。

 そんな俺の視線に気付いてか、いや。多分気付いていなかったと思う。紫荻は続けざまに言う。


「だったら、しおぎは月にならなくてもだいじょうぶですね」


 小十郎が首を傾げたのが分かった。

 俺だって不思議に思った。どうして妹がそんな事を口走ったのか。

 どうしてそんな心から安心したような、寂しそうな顔が出来るのか。

 記憶がよみがえったのは、正にその時だ。あまりにも切なげな紫荻の表情に子供ながらに不安に思って、声を掛けようとした時のことだった。


 ――。


 それは何処での話しだったろうか。

 ずっと昔で、今と同じぐらいの歳だった気がする。


 はある日突然に右目が見えなくなったのだ。

 どうしてかは誰も教えてくれない。誰も答えてくれない。

 ただ酷く死んでしまうんじゃないかと思える日が何日も続いた事を覚えている。

 苦しい日々が漸く無くなった時、目が覚めたら右目が見えなくなっていたのだ。


 それから日常が変わった。

 周りにいた者達がまるで腫れ物に触るかのように余所余所しくなった。

 母がいつもより冷たくなったように感じ、弟ばかりに愛情を向けられるようになった気がした。

 広い世界で誰も味方がおらず、ただ一人ぼっちになった――。そんな気持ちに苛まれた。

 暗い部屋で閉じこもって、誰とも会わず。食事もとらず。ただ自分で自分を隔離する。

 毎日がそんな日々だった。


『おにいさま。おにいさま!』


 ああ、いや違う。

 無遠慮に、そんな世界にだけは何時も押し入ってきたのだ。


 亜麻色の髪に、透き通った空の様な蒼い瞳を持つ子供――。

 数年前に父と呼ぶ人物が連れて来た、ずっと隠されていた妹と言う存在が。

 部屋にやって来る妹は何時もにこにこ月の様に笑って、玩具や菓子を持ってきて側に居てくれた。


 病気が移ると言えば、病気はもう治っていると離れない。

 一人にして欲しいと言えば、首を振り側に居たいと駄々を捏ねる。

 鬱陶しいと叩いても、泣くのを我慢して毎日俺の元にやってきた。


 別に側に居て何かをするわけでもない。ただ側に居ていつもニコニコ笑っているだけ。

 自分にはそれしか出来ないからと、何時も妹は俺の側に居た。そんな妹に根負けしたのは俺の方だ。


 誰も入れたくない部屋の中で妹だけは入るのを許した。

 光も射さない暗い部屋でろうそくの明かりだけを頼りにして色々な話をした。

 外にも出ない兄に良く付き合ってくれたものだと、今になれば酷く呆れと驚きを感じる。

 何時の頃か。弱音を零した事がある。


『――。俺はこわいんだ。外がこわい』

『??どうしてですか?』


 俺よりも3つも下の妹はまるで共感も出来ないのか無邪気に聞いて来た。

 何が怖いか?人の目が怖い。両親の気持ちが怖い。もう失った。届かない光が怖い。

 でも子供ながらになんて伝えるべきか分からなくて口籠る。

 それでも俺を真っすぐに見てくる蒼い瞳からは逃れられなくて、思い悩んでから口を開く。

 失った右目を隠して答える。


『――。夜が、暗くて怖いんだ』


 俯いたまま。暗い気持ちのまま。世界なんて無くなってしまえばいいなんて思いながら。

 妹には難しい話だったのか、大きな瞳には困惑の色だけを映して首を傾げる。

「今は昼です」なんて言葉が聞こえたような気がして。苦笑を浮かべて「冗談」と言おうとした時。小さな手が俺に伸びる。


『夜には月があります。月はあかるいです。なにをこわがるひつようがありましょうか!』


 流石に呆気にとられた。

 そんな意味じゃないのだが。彼女にどうやって伝えようかと迷う。

 幼い妹に伝わる様になんて伝えるのが正解なのか。


『お前には分からない。俺には夜しかないよ。――俺に、俺の右目には月は見えやしない』


 だのに、口から出たのは皮肉も込めた言葉だ。

 思わず口に手を置く。流石に飽きられた。飽きられる言葉を吐いた。

 置いていかれると恐怖を抱いて、彼女に手を伸ばす。小さな手を掴もうとした時だ。その手が俺のしっかりと握りしめる様に、手を取ったのは。


『見えます!おにいさまにもちゃんと月は見えます!夜もあかるくする月がそばにあります!』


 なんで?

 どうして?

 なにを世迷言を。

 いろんな言葉が流れ込んで、感情のままに声に出す。

 ただ勢いのままに怒鳴りつけて、出て行けと手を弾き返す。


 それでもだ。

 縋る様に、手放さないと言わんばかりに、その小さな手が俺を掴んだ。

 真っ青な瞳が俺を映しとって叫ぶ。はちきれんばかりの声で、意志の籠った瞳で。


『月ならここにいます!』

『――は?』

『月なら紫荻がなります!どんなくらやみでもてらす、どこまでも――。どこまでもてらす、大きな月になってみます!おにいさまだけの月になります!!』


 ――。言葉も、何も出なくなった。

 その瞳が、その発言が、彼女の全てが。ただ真っすぐで。何処までも真っすぐで。

 そうだった。自然と涙が溢れ出て来たんだ。


 彼女の言葉に嘘偽りはない。たった4つのガキが、だ。

 憐憫なんて物は一切ない。ただ純粋に。心から発した願いと近い。


 彼女はそのときから「竜の月」となったのだ。


 それから小十郎と言う右目が出来てからも、彼女は言葉通り月であった。

 誰よりも走り、駆けて。の道標かの様に彼女は輝き続けた。

 誰もが認める、『光』となったのだ。


 ――。


 誰の記憶だろうか。酷く懐かし思い出が溢れる。

 目に映るのは何時もと変わらない。ほっぺを膨らまして小十郎に食いかかる紫荻の姿だ。

 幼くて危なっかしい。


 ただ、どうしようもなく先程の言葉が胸を抉る。

 彼女は、紫荻は俺の『月』ではない?

 さも当然に感じて、実に腹立たしく許せなくなって。

 どうしても先程の言葉を訂正させたくて、その腕を取る。


「紫荻」

「なんですか?あにうえ」

「紫荻はおれの――。おれだけの月だからな……!」

「いやです」


 瞬殺?

 まるで俺の言葉を待っていたかのように妹は言い切った。

 コレばかりは本当に涙が出そうだ。


「しおぎがつきになったら、ひどいめにしかあいません!だからもう、つきにはなりません!」


 いや、本当に泣いていい?すっごく冷たい顔された。

 ぷいっと顔を背け、もう用は無いと言わんばかりに足元の毛布を手に取ると足早に部屋を後にする妹。

 ほろりと左目から熱い物が零れ落ちる。いや、ここで負けてはいられない。


「ま、まて紫荻!じゃ、じゃあ、今日のおやつのプリンあげるから!」

「幼稚……」

「しおぎはプリンきらいです!」

「ま、待てって!」


 今まで黙っていた小十郎が何か零したが気にしない。

 慌てたように妹の後を追いかけるのだ。


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