『自覚』作:くいな

「あの人は太陽で、僕らはその光に惹かれて群がる虫だったんです。僕らがあの人の隣に立てる未来なんてどこにも存在してなくて、あの人は何時だって一人で輝けるんです」

「まるでアイドルの厄介なファンですね」熱量に押され、司会者は笑う。

 ええ、と彼は首肯した。

「アイドルなんてもんじゃありません。あの人は僕らにとって‥‥‥神様ですよ」

「もはや信仰ですね」

「近づくだけで燃えてしまいそうな天才。彼に軽率に憧れたばっかりに苦しんだ人は多いでしょう」

「あなたも彼に憧れてこの道に入った、と?」

「ええ。子どものころから、あの人の隣で戦えるその日を夢見てがむしゃらに歩んできました。今思えば、幼い夢でした。笑っちゃいますよね、あの時は知らなかったんです、まさか僕が大人になったら‥‥‥」

「彼はきっと引退しているということを」司会者は言葉を引き取った。

「正確に言えば、ほんの少しの期間だけダブルスを組んでいただける可能性はありました。計算上は。でも、あの人はちょっと早めに引退なさった」

「あの伝説の事故ですね」


 男子シングルス準決勝の序盤の序盤。

 通常なら隅にスマッシュを叩きこむ場面だが、相手はしそこなった。ボールにかかっていた強烈なスピンにより、期せずしてラケットの枠に当たってしまったのだ。

 彼のコートの前方で大きくバウンドした球は、到底人間には届かない弧を描いて観客席に吸い込まれていく。もう無理だ。運が悪かったと諦めるべきであると誰もが思った。

 しかしあの人は違った。

 大型獣のようなのびやかなダッシュで後ろへ下がり、ボールに正対すると、背泳ぎ選手よろしく観客席に飛び込んだのだ。あの人のラケットが中心でボールを捉え、黄色の球は――今度は相手のコートで同じ弧を描いた。相手は唖然とするばかりであった。

 客席に飛び込んだあの人をファンが囲む。右腕はあり得ない方向に曲がり、頭から血をだらだら流し‥‥‥彼は笑った。「やってくれたな、でも僕の勝ちだ」と。


 目を伏せる彼に司会者は微笑みかける。

「そんなレジェンド、バルドル選手がなんと、今日来てくださっています!」

 目を見開く彼の口は、言葉を発せないままぽかんと開いていた。幕が開いて、あの神様がやってくる。大型獣を思わせるストライドは変わらない。バルドル選手は堪能な日本語で語りかける。

「さっきから聞いていればなんだよ、僕を持ち上げて、自分のことは卑下しやがって。次の神様の自覚が無いようだね?」

 身体を傾けて差し出された異形の右腕を両手で恭しく握り返そうとしたが、途中でやめ、日本選手は胸を張って片手で堅く握り返した。

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