第38話

 次の日、仕事場へ行った。荷物の整理をしたいという

 ここも遠からず、引き払わなければならないだろう。

 仕事場に残した自分の荷物を、引き取るものと処分するものに仕分けする、あの日、借用書にサインしたあとやるはずだったことだ。

そこに、稲垣がやってきた。

「お疲れ様です」

「昼田さんのご容態はいかがですか」

「まだしばらく様子を見る必要があるようです」

 曖昧に答えると、編集者は話題を変えた。

「ところで、『ばら色の人生』なんですけども」

 そのとたん、稲垣の口調が変わった。興奮した様子になって語りかけてきた。

「今度出た単行本、すごい売れ行きですよ!」

「そうなんですか」

「いくら刷っても、次から次へと売れてしまうんです。どの本屋にも在庫がない状態になった。SNSじゃ、『手に入らない』という書き込みばかり。結局、電子書籍版を前倒しで出すことになった」

「ネットで騒がれてることは、知ってましたが……」

「アニメ化の企画も進行中です。もっともっと売れる。このクラスのヒット、うちから出てるマンガでも、そうそうないかもしれないな」

 毛受はそんな言葉を呆然と聞いていた。

 次の日。輝星社の編集部に呼ばれた。

 あの編集長が待っていた。

毛受が入ってくるなり、挨拶もそこそこに、大声でしゃべり始める。

「『ばら色の人生』、あれ、あなたが原作なんですってね」

「まあ……元ネタを考えたのは、ぼくです。それから詳細はふたりで作りました」

「稲垣から聞いてるだろう」

「ええ、まあ」

「すごい評判なんだ。アニメ化のオファーも来ている。原作のストックもないので、待ってもらってるがね」

「気の早い話ですね」

「しかし、痛いアクシデントだなあ。本誌の部数も、もっと伸びると思ってたのに」

 やはり雑誌の編集長は、そう考えるのか

 続いた編集長の言葉は、思いがけないものだった。

「どうです? 作画担当を変えて連載を続行するのは? チーム昼田ユキ、ということで」

「……」

 それは今、言うことだろうか?

 しばらく何も言えなかったが、首を振った。

「いえ、それはちょっと……あくまで、あれは昼田ユキの作品だと思いますので」

 編集長はなにも言わなかった。


 家に帰って、『ばら色の人生』単行本の一巻を読み返してみると、それはもう、昼田ユキの作品にしか見えなかった。

 描線の一本一本、台詞回しにも、彼女の魂がこもっている。

 この物語に枠組みと初速を与えたのは自分だが、それからは彼女自身の力で加速し、そして飛翔していった。

 そして、容易にはたどり着けない高みにまで達していった、というのか……。

(『ばら色の人生』は、ほかのだれでもない、きみ自身のものだ)


 翌週。

 昼田ユキ『ばら色の人生』の載った、多分最後の「週刊少年スター」が発行された。

 巻頭カラーだった。

 ネームは完成して、一部のペン入れまではできているので、残りはアシスタントが仕上げて掲載発表したという。

 SNSでの話題ランキングでも上位に位置し、単行本は、大手取り次ぎが発表するベストセラーリストの1位を独走している。

 そして、次週号の発売日、「週刊少年スター」のウェブサイトにはお知らせが載った。

「大変申し訳ありませんが、お楽しみ頂いています本誌連載作品『ばら色の人生』は、作者の昼田ユキ先生の急病により、無期限休載します。編集部一同、先生の一日も早いご快癒を願っております」

 詳しい病状は明かされなかったが、一部のネットニュースが「『ばら色の人生』無期限休載! 昼田ユキの病状は重篤か?」といった憶測記事を載せた。輝星社は肯定も否定もしなかった。

 しのはら黎はSNSにコメントを載せた。

「昼田ユキさん急病と休載のお報せを聞いて、呆然としています。このようなかたちで連載が中断してしまうのは残念です。もっと読みたかったし同じ誌面で競いたかった。昼田ユキさんのご快癒と連載再開を祈ります」


 輝星社の本社前で声をかけられた、

「こんにちは」

 しのはら黎だった。浜中と一緒だった。

「妻です」

「そうなんですか」

 しばらく話をしたが、その中で不意に、しのはら黎は言った。

「……わたしは、悔しかったのですよ。足を洗ってただの主婦になったはずなのに、いまさらしゃしゃり出てきて」

彼女が不妊症だったことは知らなかったのか。

「わたしはマンガ家の道を選ぶとき、親には理解されなかった。

親の世界には「マンガ家」という存在はなかったのね。

どこか遠くにあるもので、自分の娘がそれだとは思わない。だからずっと、親とは疎遠……」


スタジオの閉鎖も決定した。マンガに関係するマネジメントの一切は、これから編集部が担当することになる。

 ふたりのアシスタントと一緒に部屋の片付けをした。アシスタントも、失業してしまったわけだ。

 しかし、ひとりは笑っていった。

「わたし、来週からは別の先生のところに行くって、決まってますので」

「技術を持ってるひとは、強いですね」

 嫌味ではなかった。


 病院に行くと、長沼みゆきは数日前に退院したと教えられた。転院では無く、自宅療養するという。

 自分から連絡を取ることはしなかった。


 転職サイトから連絡があった。

 別のビル管理会社から、面接を受けないか、という報せだった。

「ありがとうございます」

 連絡を返すと、面接の日時を伝えてきた。

 毛受も、これからはじぶんの人生を歩まなければならない。


 いろいろなことが起きて、それに対処していたら、秋も終わろうとしていた。

「年末」といっても、いい頃合いだ。

 すべてが終わった後、久しぶりに、「ファットキャット」に足を伸ばした。

 いつものように太った猫が窓辺で昼寝をし、宮口は、カウンターの中でせわしなく働いていた。

「どう?」

「ぼちぼちかな」

 コーヒーをすすって、いった。

「再就職、出来そうだよ」

 猫を抱き上げ、いった。

「それはよかったじゃない」

「そうだね」

 すこし笑みを浮かべて答えた。

「彼女は?」

「療養中だね。まだしばらくかかるみたい」

「早くよくなるといいね。だって、わたしも続きが読みたいもの」

「うん」

 生返事をした。

「……わたしも、マンガ家復帰しようと思ってるのよ」

「え?」

「彼女ががんばってたのを見てたら、こっちも元気が出ちゃって……ひさしぶりにネームを切ってみた」

「そうか。がんばってよ」

 カップに半分残っていた冷めたコーヒーを飲み干して、視線を窓の外に向けた。

 鉢植えの観葉植物と、その向こうに見える湾岸の高層ビル。

 これまでのことを思い出す。

彼女に出会って、春から春まで、あっという間の一年だったのか。

 自分にはあまり時間がないことを、薄々感づいていたのか。

『ばら色の人生』というタイトルも、今になっては意味深なものになってしまった。それとも、何か、予期するものがあったのか。

 白昼夢の中で、昼田ユキが以前語っていた夢のことを思い出していた。

 遠い遠いどこかで、みんなが集まって宴が催されている、あのひとも、あのひとも参加している。自分もそこに行きたくて、たどり着こうとして、どうしても、たどり着けない。

 彼女――昼田ユキは、あの家のベッドで昏睡したまま、またあの夢を見ているのだろうか、

夢の中でも、彼女は「そこ」にたどり着けたのだろうか、その向こう側へ行けたのだろうか、と思って、店を後にした。(了)

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ばら色の人生 foxhanger @foxhanger

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