第37話 夢から夢へ

 三日経っても、彼女の意識は戻らなかった。

「彼女が意識を取り戻すかは、数ヶ月、ひょっとしたら年単位で見なければならないかも知れない」

 医者はそう言っていたそうだ。

 見舞いで病室に入っても、どことなく居心地が悪い。

もはや前の夫が登場した以上、自分の出る幕ではないのかも知れない。

 ベッドに横たわる彼女を見た。

 心電図を取るコードや点滴のチューブ、尿道カテーテルがシーツの下から伸びている。

 長い髪は手術のときに切られて、頭全体に包帯が巻かれている。

 包帯からはみ出たもみあげは、白髪が目立つようになった。

 こんなに白髪はなかったはずだ。連載の苦労で増えたのか、それとも、たんなる加齢現象なのか。

「ずいぶん、老けたなあ」

「そうなんですか」

 夫の言葉に、間抜けな相づちを打った。

 酸素吸入マスクで顔の下半分が覆われていたが、閉じた眼の周りの顔色は、いいように見えた。

今にもむっくり起き上がって、しゃべり出しそうにしか見えない。つぎのネームはどうしようとか……。

「がんばってたからなあ。これからってときに……」

 そう考えていると、夫は言った。

「無理しすぎたんだろう。いまはゆっくり休めば」

「……」

「うちにいたときから、マンガを描き出すと、ピリピリしていて、気が休まる間(ま)が無かったみたいだった。朝起きたら、まだダイニングテーブルで描いていた日も、一日や二日じゃなかった。

マンガを描いて頑張っているのを見るのは嬉しかった。家事くらいなら、いくらでも協力できた。でも、その雰囲気に母親が参ってしまった。どうしちゃったの? もっとゆっくりしなよ。母親がやんわりと指摘すると、あいつはキレた。今の自分にはマンガが一番大事だと言い放った。仲裁に入ったつもりだったけど、気がついたら言い争いになって、離婚するのしないの、という話に発展して……。家を出ていったときも、しばらく頭を冷やせば戻ってくるかなあ、なんて思ってたんですがね……ここまで本気だったとは、予想外でした」

「やっぱり、売り言葉に買い言葉、ですか」

 彼の言葉を聞いて、なるほど、といろんなものが腑に落ちた。

 そうか。

 自分は、彼女をマンガ描きとしか見ていなかったのかもしれない。マンガ家、昼田ユキとしか。

 それを認識したとき、自分の中の憑き物が落ちたような気がした。

「ちょっと、話をしませんか」

談話室に場を移した。

「昨日、お医者さんと今後のことについて相談しました。ここは大学病院だから、いつまでも容態の変わらない患者にベッドを提供し続けることは出来ない。頃合いを見て、転院していただかなくてはならない、と」

「そんなことを言われたんですか」

「じっさいはもっと、やんわりした口調でした」

 転院先は別の病院か、それとも介護施設か。そういえばあの老健施設にも、彼女と大して年の変わらない入居者がいた。

 しかし、彼はいった。

「退院したら、うちで引き取ろうと思うんです」

「いいんですか?」

「じつはうちの父も以前、脳卒中をやりました。六十歳のときに倒れて、残りの人生を半身不随で送りました。そのとき家を改装して、バリアフリーになっているんです。入浴とかトイレにも介助がいる有様でしたから。父が居た部屋も一階にあります。そこを使えばいい」

 そういえば。毛受は家を訪問したときのことを思い出した。

 二階にあるリビングに通されて、玄関脇の階段を上がっていった。階段には壁側にも手すりが付いて、借りたお手洗いはやけに広かった。

 そのときは、変わった間取りだと思っただけだったが、今になって……。

「それに」

 言葉を切った。

「ぼくは朝丘みゆきを、愛している」

「朝丘?」

「彼女の旧姓ですよ」

 そうか、だから彼女のペンネームは昼田ユキだったのか。

 いままで、そんなことも知らなかったのか。

「……」

 毛受は何も言えなかった。

 今の彼女を受け止めて、そばにいてあげられるのは、彼だけかもしれない。

 自分の知らない彼女を、よく知っているのだから。

 毛受は病院へ行くのをやめようと決心した。

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