第36話
そのとき、思い出した。
前の旦那には、どう連絡をつければいい?
とっさに思いついたのは、以前の職場だった。そこに訊くしかない。少し躊躇ったが、部長のスマホに電話をかけた。
「毛受です。ご無沙汰してます」
「お久しぶり。どうしたの?」
久闊を叙するのもそこそこに、本題を切り出した。
「じつは、長沼さんが倒れたんです。今病院で付き添ってるんですが、自宅の電話番号が分かりません。教えてくれませんか?」
「ほんとう? ちょっと待ってくれ」
しばらくの間があって、
「今から読み上げる」
社用で渡されていた携帯電話に、彼女が当時住んでいた家の、固定電話の番号が登録されていたそうだ。
「部外者に個人情報を教えるわけにはいかないんだが……」
パート採用の際に書いてもらう、個人情報に関する書類にそんな記述があったと記憶している。
「今回は特別だ。くれぐれも、おれが教えたとは言わないでくれ」
部長はそう言って電話を切った。
教えてもらった電話番号をプッシュし、みゆきの実家へ電話をかけた。
「はい、長沼ですが」
出たのは姑だった。
要件を告げると、意外に落ち着いた感じで答えた。
「そうですか。すぐに伝えます」
一時間ほど経って、病院に前の夫、賢一がスーツにネクタイを締めた出で立ちでやってきた。
「会社を、早引けしてきました。みゆきは?」
「手術中です」
ふたりは長椅子に座って、時間の経過を待った。
無言だった。
夜になって、みゆきを乗せたストレッチャーが手術室から運び出され、手術を担当したと思しき医者が手術室から出てきた。三〇代くらいの男性で、青い手術着には血の跡がついている。
医者は言った。
「あなた、彼女の関係者の方ですか」
賢一が口を出した。
「このひとはいいんです」
「じゃあ、ご一緒にどうぞ」
そして、診察室に案内され、医者は説明を始めた。
「やはり、くも膜下出血でした。かなり出血していましたが、さいわい搬送が早かったので、一命は取り留めそうです」
そういって医者は電子カルテのディスプレイに、CTスキャンの画像を呼び出した。彼女の頭部の輪切りされた像が映った。
(ここで考えていたのか。『昼田ユキ』を生み出したのは、ここなのか)
毛受はぼんやりと思った。
「出血を取り除いて、破裂した動脈瘤をチタンクリップではさみ、止血しました。再破裂のリスクはほぼなくなりましたが、しかし、ここ二,三日から一週間が山場ですね」
「と、いいますと」
「脳血管の攣縮が起こる可能性があります」
「けいしゅく?」
聞いたことが無い言葉だった
「出血の影響で血管が細くなってしまうのです。血流が不十分になって、脳にダメージが加わる」
サイトにはそんなことが書いてあったように記憶しているが、読みまでは分からなかったのだ。
「それまでに意識が戻らなければ、遷延性意識障害に陥る危険性が高い」
「せんえんせい……?」
これも、初めて聞く医学用語だった。
「昔の用語でいえば、植物状態です。医学的にそう判定されるには、この状態が三ヶ月以上続いたときなのですが、とにかく、長期間の昏睡状態に陥ってしまう可能性が出てきます」
賢一は言った。
「植物人間、ですか。そうなったら、治らないのですか?」
「意識を取り戻す可能性はあります。あくまでも、可能性ですが……」
医者は明言を避けた。
医者の説明を聞きながら毛受は、父親が死んだときのことを思い出していた。
最後の百万円を貰った正月。松が取れたらすぐ、入院したという報せが入った。
病院に見舞いに行くと、病状はそれほど悪くなさそうに見えた。しかし、父の体調は坂を転げ落ちるように悪化し、じきに食事もままならなくなった。
退院できないまま、翌月には亡くなった。
最後の二週間は起き上がるどころか、しゃべることも出来ず、ほとんど昏睡状態のような状態だったが、年齢を考えて、過剰な延命治療はしない方針だった。
危篤を知らされ、駆けつけたとき、呼吸器をつけて横たわる父に、どんな声を掛けていいのか、分からなかった。だまっていると、母親がいった。
「そこにいるだけで、いいのよ」
黙って見ていると、バイタルサインは弱くなっていった。しばらくすると、ピーッと音が鳴って、モニターに表示された心電図がフラットになった。
父親は自分がこんな仕事に就いていることを、快く思っていなかった。
孫の顔も見せられなかった
自分の人生に後悔はしていなかったはずだ。しかし、父親が死んだことで、自分の一部がなくなってしまったように思えたのだ。
こうして、年を取る度に、いろんなものを失い続けていくんだろう……。
結婚して子供を作ることが出来たら、そこに付け加えることも出来たんだろうか。
小説を書こうと思ったのも、自分に「なにか」を付け加えたいがためだったのかもしれない。
そして昼田ユキ――みゆきに傾倒したのも。
しかし、みゆき自身も、そうかも知れない。
結婚はしたものの、子供は望めないことが分かった。
会社にも残れなかった。
自分には何もない。年を取って失ってゆくものの代わりに、なにかを付け加えねばならない。
そして、いちどは別れを告げたはずの「昼田ユキ」になることで、成功した、ように見えた。
意識が回復したとして、脳に受けたダメージはどれくらいなんだろうか。日常生活は送れるのか。マンガを描けるまでに回復することはあるのだろうか。
そんなことを思っていると、
「毛受さん」
賢一は不意に言った。
「あんたを、疑っていた」
「?」
「パートに出てからしばらくして、急にマンガにのめり込みだした。プロになるとか言い出して。聞きだしたら、職場であんたに会ったのがきっかけだという。それからはマンガ一直線……でも、どうしても信じられなかった。てっきり、あんたが粉をかけたんじゃないかと思っていたよ」
そこで言葉を切った。
「そうじゃなかった。本気でマンガ家になりたかったんだな、みゆきは……」
毛受に向き直って、深々と頭を下げた。
「疑って、すまなかった」
「こちらこそ、あなたに謝らないと……」
「いや、あなたに巡り会わなくても、いずれは、そうしていたんじゃないか……」
そして、賢一はいった。
「離婚届は、まだ提出していない。法的にはまだ夫婦ですよ」
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