第35話

 数日後。

 朝から晴れていた。TVの天気予報は、太平洋高気圧が列島の上に大きく張り出し、一両日中にも関東地方で梅雨明け宣言が出るであろうことを告げていた。

 午後二時。借用書を受け取るために、仕事場に呼ばれた。

 原稿を編集部に送った翌日の、オフの日だから、アシスタントは出勤していない。

「こちら、確認して」

 借用書をクリアファイルから取り出して、一瞥した。

 敷金礼金に前家賃、手数料など仕事場を借りるのにかかった費用の一切合切。それに机や本棚、PC。彼女に渡した金の分も入っている。多少は値切られても仕方がないか、とも覚悟していたが、ずいぶん几帳面にそろえたものだ、と思った。もとより、厳密さを求めてもめるつもりはない。

 単行本の印税が入ったら支払いを始め、一年かけて完済するとあった。今月末には『ばら色の人生』一巻が出る予定になっている。入金は翌月だろう。返済はそれ以降か。

とりあえず、この書類にサインをして印鑑を捺せば、契約は成立する。

最後くらいは、きれいに別れたい。毛受は頭を下げた。

「いままで、ありがとう」

「……どういたしまして」

 微妙に笑ったような表情をしたが、なにか、ぎこちない。

 今日の彼女は、顔色が悪いように見えた。やけに青白いのだ。疲れが溜まっているのか。

「気分でも悪いの?」

「……別に」

 うつむいたまま、返事をした。

書類にこんどは丁寧に目を通して、あとは署名して判子を捺すだけだ。

「これっきりなんだな」

 いいのだろうか。

 契約が成立してカネを受け取ったら、自分と彼女は、ほんとうに切れてしまうのだ。

 そのとき、不意に彼女の表情が歪んだ。

「……」

「どうした?」

「頭が、痛い……」

 うめくように口に出し、頭を抱えてその場にうずくまってしまった。

「大丈夫か!」

「痛い……我慢出来ない……こんなの、はじめて……」

「おい!」

「救急車を……呼んで……」

 切れ切れにそう告げて、沈黙した。ソファに崩れるようにもたれかかって、いびきをかき始めた。

 ただ事ではないことは一目瞭然だ。

 取るものも取りあえず、一一九番に連絡した。

「救急ですか、消防ですか」

「急病です! 激しい頭痛を訴えてます」

 住所を告げると、救急車は数分でやってきた。ドアを開けると、むっとした空気が入り込んできた。

「来たぞ! がんばれ!」

 彼女の有様を見るなり、救急隊員は状況を判断した。

「脳出血の疑いが強いですね」

「そんな」

 彼女の身体は担架に乗せられ、階段を降ろされていった。

「あなたは?」

「……同僚です」

 まだ、そう言ってもいいはずだ。

「どなたか、身内の方はご存じですか?」

「……」

「じゃあ、一緒に乗ってください」

 緊急灯をつけて救急車は走りだした。

 交差点をやけにゆっくり曲がった。

「クルマの振動が、脳出血を誘発する可能性がありますので」

 大通りを直進し、救急車は千駄木にある大学附属病院に到着した。

「付き添いの方は、こちらで」

 待合室の長椅子に座ったまま、看護師の説明を聞く。

「とりあえずCT検査を行いますが、状況からすると、くも膜下出血の可能性が高いと思われます。だいたい十五分くらいで結果が出ますが、連絡した時点で手術の準備を進めているところです。すぐ開頭手術に入らせていただきます」

「そうですか」

「こちらでお待ちいただいて結構です。手術が終わるまで、数時間かかりますので……」

 談話室に案内された。ソファに腰を下ろして、スマートフォンで「くも膜下出血」を検索した。

 ウィキペディアは当てにならなさそうなので、病院のサイトをいくつか見た。

 くも膜、とは脳の外側を覆っている膜で、脳の主要な血管はその下を通っていること。

 くも膜下出血とは、多くの場合、その動脈に出来たこぶが破裂して発生すること。

 女性に好発すること。

 前触れも無く発症することが多いが、ひとによっては、その数日前に頭痛を起こすことがあること。

 発生したときは、バットで殴られたような、とも形容される激しい頭痛を訴えること。

 出血を起こしたひとのおよそ三分の一が、発症してすぐに命を落としてしまうこと。

 生きているうちに病院に担ぎ込まれ、最善の治療を施しても、患者の三分の一には重い後遺障害が残ること。

 手術が成功しても数日から数週間後に再発する可能性があり、再発時の死亡率は五割、再々発時のそれは八割に達すること。

 無事に社会復帰できるひとは、残り三分の一に過ぎないこと……。

(時間がない、といっていたのは、本当だったのか)

 虫が知らせたのか。それとも、身体の不調を察知していたのか。

 毛受の胸の内に、悔しさがこみ上げてくる。

(どうして)

 タイミングが悪すぎる。

「これからじゃないか。これから、っていうときに……」

 

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