第31話

「すごい人出ね……疲れちゃった」

 彼女は知り合いや「オンサイド」時代の投稿者が出しているブースを回ってきたようだ、かなり広いしこの人混みなので、歩くだけでもかなり疲れるだろう。

 そのとき、

 ひとりの女性が、ブースにやってきた。背が低く、小太りでメガネをかけた中年女性だ。

「こんにちは」

「……!」

「しのはら黎さん」

「えっ」

「……どうも、お久しぶり」

「初連載、おめでとう」

 いきなり、みゆきに声を掛けてきた。

「でも」

 なにか言いたそうだ。それも、あまりよろしくないことを。

「……今頃になって」

「え?」

「今頃になって、マンガ家の夢を追い始めようっての?」

「……いけない?」

「いけなくはない。でも、もう遅い」

 さっき浜中がいったことじゃないか。

「わたしはね」

 そういって一歩にじり寄る。

「この年まで、青春を、いや、人生をかけてマンガを描いてきたのよ。のうのうと主婦やってたあなたが、いまさらやってきて、マンガ家やりたいなんて……」

 しのはら黎がデビューしたのは、たしか二〇年以上前だ。

投稿はがきが「オンサイド」に載っていたのを記憶している。

 デビューしたのは少女マンガ誌だ、

青年マンガやレディースコミックが主立った活躍の場で、しかも、輝星社系とは仕事をしたことがないはずだ……。

「……わたしだって」

 みゆきが口に出したのが聞こえた。しかし、しのはら黎の耳に入ったかどうか。

 ブースを立ち去るとき、彼女は取って付けた励ましの文句を言った。

「……お互い、がんばりましょうね」

「はい」

 ブースにいたのはわずかな時間だったが、その場に張り詰めていた、ぴりぴりした空気は忘れられない。


「お疲れさま」

 予約しておいた豊洲の居酒屋で打ち上げをした。

年越し蕎麦を食べながら、今日の疲れをねぎらった。

 嬉しかったのは、現金収入が入ったことだった。

 持ち込んだ本五〇〇部は完売。一冊一〇〇〇円で売ったので、五〇万円の現金が入った。印刷費や参加費などはかかるけど、それらを差し引いても年越し蕎麦と餅代くらいは残る計算だ。

 その印刷費や参加費は、むろん毛受が立て替えたのだが。

「これでしばらくは助かるね」

 手元に現金の一部を残し、あとはコンビニのATMで口座に入金した。次の原稿料が入るくらいは保つだろう。


 駅を降りて歩いていると、どこからか、鐘の音が聞こえてきた。

 除夜の鐘だ。

 毛受はいった。

「これから、初詣に行ってみないか」

「いいわ。帰る」

「……そうか」

「明日からまたマンガを描くよ。だから帰って、寝る」

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