第30話
開場してから、客はずっと途切れなかった。行列を捌いて、段ボールを開けて在庫を取り出す作業を延々と続けて、くたくただ。
昼過ぎには売るものがなくなったので、閉会を待たずにブースを撤収した。
片付け終わると毛受は尿意を感じ、ブースを離れた便所に行った。
用を足して手を洗おうとすると、スーツの男性が個室から出てきた。
「毛受さん、久しぶりじゃない」
「あ、浜中さん、ご無沙汰です」
浜中はフリーの編集者として活躍していたが、輝星社の仕事をするようになり、編集長になった。そして役員に迎えられ、ついには子会社の社長にまでのし上がったやり手である。
毛受とはかつて、顔見知りだったことがある。
「いらしてたんですか」
「仕事だよ」
「たしかに」
ファンの雰囲気を肌で感じたり、マンガ家たちの同人誌を読んだりすることも、仕事のうちだろう。
並んで手を洗いながら言葉を交わす。
「社長、就任されたそうですね。おめでとうございます」
ネットで知った話題を振ってみた。
「ありがとう」
北辰社は輝星社の子会社である。総合出版社である輝星社に対して、マンガ、とくに少女マンガに強いという評判がある。
「さて、出した後は一服だ。あんた、煙草は吸えたっけ」
「いいえ」
「そうか……でも、来なよ。居心地悪くて申し訳ないがな」
いっしょに喫煙ブースに向かうことにした。
喫煙室に先客はいなかった。電子たばこの普及で、もうもうと煙が立ちこめる空間ではなくなりつつあるが、部屋全体に染みついた脂(やに)臭さはなかなか取れない。
浜中は電子たばこを取り出した。
「教えてやろうか」
編集長の名前を挙げ
「あいつとは同期なんだ。おれは、脱落したがね」
そして、彼はいった。
「しのはら黎って、いるだろ」
「えっ」
「彼女、おれが担当してたんだ。はじめて読んだのが、おれだった」
「そうなんですか」
「たしかに彼女はいいマンガ家だった。でも、ほんとうに欲しかったのは、昼田ユキのほうだったんだ」
「……」
「しのはら黎に住所を聞いたよ。まだプライバシーにうるさくない時代だったからな。そして手紙を書いた。あなたの作品が見たいから、ぜひとも作品を送って欲しい、ネームでもいいから」
そこまで口にして、電子たばこを咥えた
「で、どうだったんですか?」
「送ってはきた」
「……」
「読んでいろいろ意見したけど、聞き入れられなかった。彼女は所詮、マイナーな内輪の世界で受けを取るのが関の山だな」
「……」
その話を聞いて、思い当たることがあった。以前マンガを持ち込んだとき、彼女に厳しいことを言った編集者とは、彼のことではないか。
「あんたはまだ、昼田ユキに入れ込んでるのか」
「まあね」
「ダメだよ」
手を挙げた。「お手上げ」のポーズのようだった。
「四〇過ぎてデビューしたって、もう遅いんだよ。彼女は時機を逸した」
断定的な物言いに、少しカチンときて、言い返した。
「そう言い切れるんですか」
「ああ」
「そりゃ、四〇,五〇,六〇のマンガ家はいるよ。でも彼ら彼女らは、もっと早くにデビューして、キャリアを積んで、自分の世界をがっちり作ってるんだ。それはいっぱい描いてることにも繋がる。蓄積が全然違うのよ、第一人者になるやつはもたもたしてない。早けりゃ十代でもうスタートしてる。ましてや、毎週連載する少年マンガだなんて」
「……」
「彼女には才能があったと思う。でも、磨くときを間違えたんだ。まあ、同人誌かセミプロでやってればいいんじゃないか」
「……」
以前、コミケの同人作家を軽く見ていたことを思い出した。あれは所詮素人さんの遊びで、プロが入れ込むもんじゃないと。
「じゃあな」
ひとしきり話すと、かれは去っていった。
ブースに戻るが、そのことは言わなかった。
苦々しい思いを扱いかねつつ、思い出したことがある。
毛受が小説を書きたい、と思ったときのことを思い出した。
旧知の作家に相談したら、似たような答えが返ってきた。
「今からやっても、たかがしれてる。いちばんになるやつは、あんまりもたもたしてないよ。年を取ってデビューした作家は、もともと、物書き商売に就いていたひとが多いんだ。
脚本家とか、ライターとか、大学教授とか……」
「おれはライターだが」
「まあ、例外は、いなくはないがな。たとえば松本清張だ。清張は太宰治や中島敦と同年生まれなんだ。しかし、デビューしたのは四一のとき、かれらが仕事をなし終え、世を去ったとき、ようやくスタートラインに着いたんだ。
さらに、当時の学歴で尋常小学校しか出ていない。卒業してからも、物書きとは関係のない仕事をやっていた。たたき上げの途中入社で朝日新聞社に入ったが、記者や論説じゃなくて広告制作、今で言うグラフィックデザイナーだよ。
しかしデビューしてからは、ものすごい勢いで「大作家」になっていった。『或る『小倉日記』伝』は芥川賞と直木賞にノミネートされ、芥川賞の方を獲った。清張は推理小説のみならず、歴史小説や現代史についても大量の本を書いている。全く、規格外だよ
「じゃあ、松本清張になればいいわけだ」
「そうだな」
残念ながら、自分は松本清張にはなれないようだ。
しかし彼女は――。
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