第24話
みゆきは不意に話題を変えた。
「ねえ、どう思う」
「どうって」
「わたし、妊娠出来ないのよ」
「……」
「どう思ってるのか」
「ひどいじゃない。旦那さんはどうしたの?」
彼女の目には、涙がにじんでいた。
「ほかの女の子と……」
「えっ」
唐突にそんなことを言われても、
「思い過ごしだっていうんだけど、仕事してれば、女の子と飲むことなんて、よくあるとか……」
(変な雰囲気になってきたなあ)
毛受はそわそわしはじめる。
(まずいなあ)
それは本心だった。彼女はあくまで「同志」であって、それ以外の心情はノイズでしかない。そう思わないと、やっていけない。
発泡酒のロング缶が二本、空になっていた。みゆきはストロング系のチューハイに手が伸びていた。
ずいぶん酒に強いことは知っていたが、こんなに飲むとは。
「毛受さん」
不意に、みゆきは顔を上げた。目が潤んでいるように見える。
「わたしは……わたしは、トップにはなれないの。遅かったの」
声が震えている。
「トップって」
「しのはらさんがいるようなところ」
「そうは言ったって」
「あそこには行けないのよ。もう間に合わないの」
涙が次から次へと溢れてくる。
「まあ、落ち着いて、落ち着いてよ」
なだめようとする。
「メジャー誌でバリバリやるだけが、マンガ家じゃないでしょ。きみはきみなんだから、きみの作品をマイペースで描いていけばいいじゃない。それこそ、同人誌だって……」
「そんなんじゃない!」
強い言葉が返ってきて、すこし驚いた。
「そんなんじゃないの……」
みゆきは俯いて、卓に言葉をぶつけた。
「こんな、中途半端な……。遅すぎた……遅すぎたのよ……わたしは……」
あとは、言葉にならなかった。突っ伏して泣きじゃくるだけだった。
そういえば。
昔読んだ本に、こんなことが載っていた。
かつて、才能に恵まれた上り調子のボクサーがいた。日本、東洋とタイトルをステップアップし、いずれは世界チャンピオンも夢ではない、と見られていた頃。彼はある日、高校時代の恩師を訪ねて、こう告白した。
「おれは、チャンピオンにはなれない男なんだ」
そう言って泣き続けたという。
そのとき恩師には涙の理由が分からなかった。だが、彼は衆人が認める才能を持ちながら、ついに世界チャンピオンにはなれずに引退した。
自分が頂点を極められないことに、気がついてしまったのか――
しかし、マンガはボクシングではない。チャンピオンひとりのみが報われる分野ではない、はずだ。
だが、そんな一般論では説き伏せられないなにかが、彼女の中からあふれ出てしまったのだろうか。
彼女は「世界の果て」を見ることが出来るだろうか――
酔ったみゆきは、うつらうつらし始めた。
「いい時間だね」
毛受は続けて声をかけた。
「きみは、布団で寝なよ。おれが使ってたやつで、申し訳ないけど」
「あなたは……」
「いい」
立ち上がる。
「ちょっと、散歩してくる」
家を出て明治通りまで歩き、二十四時間営業の店に入った。朝まで過ごそうと思った。一緒の部屋にいたら、どうにかなってしまうかもしれないと思ったからだ。
そのとき、ふと、思い出したことがあった。
十代最後の秋だった。
浪人していた。予備校には通っていない、いわゆる自宅浪人で、アルバイトをしながら受験勉強をしていた。
その日が発売日だった「オンサイド」を神保町の書店で買い求め、駿河台下を通っていたバスに乗った。
アルバイトの関係で都バスの全線定期を持っていたので、東京都内どこへ行くにも都バスに乗っていたのだ。今より路線が稠密で、都心の繁華街なら
車内で読んでいたら、昼田ユキのマンガが載っていたのだ。
読んでいくうちに、いてもたってもいられなくなった。
同世代のひとが活躍しているのに、自分はただ、ぶらぶらしているだけでいいのか。
次の停留所でバスを降り、近くの駅まで歩いて、電車に乗って家に帰った。
もうあんな体験はしたことがない。
そうだ。
あのとき電車に乗ったのは、この、田端だった――。
あのとき感じた、胸のときめき。いや、ざわつき。
このまま、のほほんとしていられない気持ち。
内容ではない。ただ、自分と同世代の人間が今この瞬間にも頑張っているという事実が、自分を激しく突き動かしたのだ。
そして毛受は、昼田ユキにファンレターを書いたのだ。
なにを書いたかは、もう思い出せない。
「オンサイド」編集部気付で投函したが、返事はなかった。
いや、書いただけで、投函すらしなかったのかもしれない。とにかく、そのざわつきを言葉にしたかったのだ。
今に至るまで、毛受の人生は、そのとき感じたざわつきに引っ張られるように歩んできた、といっても過言ではない。
(いまの自分は、なにをしているのか)
あのときのように、自問自答する毛受がいた。
だが、いつまでも毛受の家にいさせるわけにもいかない。
朝。
家に帰ると、みゆきはいなかった。
台所の冷蔵庫に書き置きが貼ってあった。
「今晩はありがとう。一回家に帰って、夫、家族と今後をきちんとお話します みゆき」
メモを読んで微妙な心境になった。
(ここにいたって言うのかな……言わないだろうが。結局、おれが悪者ってことになるのか……)
それこそ、いまの自分の立場からすると、他人の奥さんにちょっかいをかけてこじれさせた、と思われても仕方がないのだ。
翌日、みゆきから連絡が来た。
「アパートを借りたいので、保証人になって欲しい」
昼、一緒に不動産屋に行って、物件を探した。幸運なことに、毛受の家から歩いて一〇分ほどのところに、家賃五万円ほどのワンルームマンションが見つかった。物件を内覧すると、寝るだけで手一杯の狭さだ。
「ここでいいの?」
契約するときの保証人には、毛受がなった。勤め先の欄には退職する会社の名前を書いた。まだ退職前の有休消化期間中だったから、嘘はついていない。
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