第23話
「……そういえばさ」
「なに?
「毛受さんはずっと、独身だったの?」
意外なことを問うてきた。
「結婚……したくなかったわけじゃない。してもよかった……いや、したかったなあ」
そう口にしたとき、すこし、ひやりとした。
「恋人くらいは、いたでしょ?」
「ああ……」
煮え切らない返事をした。
「いなかったの?」
「いや、いたよ」
毛受は酒の酔いに任せて、話し始める。
「二、三人はいたし……することはした」
女性相手に、まずいことを言ったかな、と一瞬思ったが、続けた。
「お見合いパーティーみたいなのにも参加したことがあったけど、始まってすぐに『お呼びじゃない』ことが分かったよ。すぐにでも帰りたかったけど、『途中で抜けるのはダメです』とスタッフに怒られて……それからどうしたかは覚えてない」
あまり冴えない昔話をしながら、一〇年以上前のことを思い出していた。
相手は高校の同級生だった。
クラス会のとき、なにかの拍子に、仕事がうまく行っていないことを話した。心配してくれたのか、それ以来、定期的に連絡を取ることになった。
ひょっとしたら、と思わなくもなかったが、やがて互いのスケジュールが合わなくなった。というか、向こうから合わないと言われることが増えた。そして、連絡も間遠になり、自然消滅していった。
そのとき、彼女に言われたことを覚えている。
「毛受くん、どうして、わたしを頼ってくれないの? わたしはなんでもしてあげる。あなたはなんでもしてちょうだい。それでいいの」
今でも意味が分からないが、毛受に苛立っていることは分かった。
もはや未練はないが、時折思い出すことがあった。
「結局……自分に、自信がなかったんだな。生活が安定してなかったし、先の見通しもない。そんな状態で女性と付き合っていいのか」
長沼みゆきはいった。
「じゃあ、わたしと一緒じゃない」
「そうなのか?」
「わたしは、マンガに自信がなかった。自信がなかったから、プロになるのはやめた」
「おれも、自分の人生の選択に後悔はしなかったはずだけど、世の中が変わった。そうなれるはずだったビジョンは、消えていた」
「あなただって、今から始めたって、遅くないと思うよ」
しかし毛受は言った。
「もう、そういうのはいいよ」
「?」
「……疲れるだけだしさ。若くもないのに、いまさら慣れないことを頑張っても、経験値が追いつけるとも思えないし」
「それって、わたしのこと?」
「……いや」
「そんなつもりじゃないよ」
「もっと若い頃に経験を積んで、慣れていれば、違うのかもしれないけど」
ふたりはしだいにアルコールに支配されるようになり、交わす言葉も、やがて、とりとめないものになっていった。
「言いにくかったけど」
「なにが?」
「わたし……お局様だったのよ」
「ちょっと想像できないな」
「そう。窪寺さんみたいな」
名前を口に出してから、苦笑した。
「でも、そのことにずっと、気がつかなくて。ある日上司に呼ばれて、いつおやめになるんですかと言われて、初めて気がついたのよ。わたしがあの職場でお荷物だった、って」
みゆきは淡々と話し続ける。
「結婚相手を紹介してくれたのも、寿退職を期待していたから。それでも居座っていたから、どんどん居心地を悪くして、やめてもらおうとする算段だったのね。最後には、ここにいても出世の余地はないから、この際だから不妊治療に専念したら、って言われた」
「うーん。それが、やめた理由なの?」
「いえ、意地でもしがみついていた。キャリアになんてならない仕事なのは承知の上で、子供が出来るまでは続けようと思ってた。でも、出来なかった」
そしてみゆきは、この前編集者に言われたことを、続けて語った。
ネームを見せたところ、首をひねったという。
「こんな現実離れした話ばかり描いてても、読者はしらけるだけだよ」
「もっと地に足の着いた話を描いたほうがいい。たとえば、自分の若い頃とか……」
「ほら、クラスのこととかさ、いじめとかさ?」
「マンガ描きなんて、いじめられっ子じゃない方が少ないよ」
「でも、わたしはそんなこと、描きたくなかった。そうはっきり言ったら、『自分の過去を直視してないだろう』って言われた。きみがマンガ家として成功することは、全国のいじめられっ子を励ますことになるんだ、って……違うのよ」
首を振った。
「わたしは、いじめた子を見返したりとか、いじめられっ子を元気づけるためにマンガを描いてるんじゃないもの。それに、直接的な励ましより、自分の好きなことに没頭して得られる励ましもあるでしょう」
「で、そう言ったら、どうなったの?」
「それは、現実逃避だって」
「ありがちな反応だな」
「でも、現実逃避のなにがいけないの? 現実から逃げたわけじゃなくて、わたしの現実はマンガの中にあった」
たしかに、彼女のようなタイプはそうだろう。
「さすがに、それいじょう言い返すことはできなかったけど、なんだか、馬鹿馬鹿しくなった。担当を変えてくれなんて言えるはずもなくて」
「そのうち仕事が忙しくなった。沙汰止みになってしまった」
「そのとき、うまくいっていれば……?」
「わたしがマンガを描くのは、自分の入る穴を掘り下げていくことじゃない。世界の果ての果てが見たい……」
「果ての果て?」
意外な言葉だった。
「そう」
力強く頷いた。
「しのはら黎さんは、見ていると思う」
「だから、あんなことが言えたのか」
「わたしね」。
彼女は言った。
「不妊症だって気がついたのは、三五のときだった。お医者さんに診てもらったら、旦那の方には問題がないから、わたしの体質だと。そうして正式に不妊症だと言われると、どうしても子供が欲しくなった。はじめは会社に行きながら、それから会社を辞めて不妊治療に専念したけど、ダメだった。何度かやって、四二になって、時間切れと言われた」
不妊治療に健康保険は使えない。
公費の助成制度はあるが、四三歳になると、成功率が低いとかで助成金が降りなくなってしまうそうだ。
加えて、身体への負担も大きく、何度も出来るものではないのだという。
結局、肉体的にもタイムリミットだと判断して、断念することになった。それが、二年前のこと。
学校を出て、就職して、結婚もした。それまで、何の不満もなかったようにみえた生活。
しかし、会社を辞めて、子供を作ることを諦めたとき、マンガに対する情熱が再燃したに違いない。
パートをはじめるすこし前から、家族に隠れて、こっそり絵を描き始めた。
「家でぶらぶらしてるんだったら、パートにでも出たらどうだ、って言われたたんですよ。ちょうど郵便受けに入ってたチラシを見て、近いからいいんじゃないかって決めたけど、こんなことになるとは……」
感慨深げに言った。
最後の缶に手を伸ばして、みゆきは言った。
「あなたはもう、飲まないの? 買ってこようか?」
「あんまり好きじゃないんだ……」
それは、本心ではなかった。
これ以上アルコールが入ると、「あのこと」を彼女に話してしまいそうだったからだ。
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