第21話

 じつのところ、生活の心配はさほどしていなかった。

 この年になると、失業保険の給付期間も変わってくる。

 こちらの意思でない失業――雇い止めなど――は三ヶ月の待機期間がない上に、給付期間も長くなる。

 それに、国民年金や国民健康保険も、区役所や年金事務所の窓口に出向いて事情を伝えれば猶予してくれたり、一定期間割引してくれる。どれも以前の就職活動のとき参考にした本に載っていたことだ。

 しかしもとより、就職活動などするつもりはなかった。

 さしあたって、大きな出費が必要になるような事態もなさそうだから、失業保険と貯金額を勘案すれば、一年くらいは無収入でもやって行けそうだ。

 とりあえず、彼女のマンガ家稼業も軌道に乗りそうなので、昼田ユキのアシスタント&メシスタントに専念することにした。

 決まった給料はないが、メシの食いっぱぐれはない。さしあたって、お代は、単行本が出たら払って貰うことにしている。

 無論、雇用保険を貰っている限り、現金収入は申告せざるを得ないが……。


 さて、そのことをどう彼女にいおうか、と思案していると、

「今日、お会いできないかしら」

 みゆきからショートメールが入った。早速、返信する。

「いいけど、どうしたの?」

「会ったら話す」

「了解」

 大井町の駅前で待ち合わせる。しばらく経つと、彼女は大きなバッグを携えてやってきた。

駅並びの中華ファミレスに入って、席に着くなり、毛受は莞爾と笑って、いった。

「じつは会社、辞めたよ」

「そうなの」

 彼女も、意味ありげな笑みを浮かべていた。

「わたし、離婚しちゃった……」

「え?」

 今度は、毛受の方が驚く番だった。

 それからしばらく、ふたりは沈黙した。

 それから毛受は席を立って、ドリンクバーをふたり分持ってきた。

「……マンガ描いてることで、家のひとがいい顔をしなかったのか」

「いえ」

「じゃあ、なんで?」

「分かってくれなかったからよ」

 言いにくそうに、彼女は答えた。

「どうして?」

「……」

 そんな雰囲気はなかったように見えたが。しかし彼女は、おずおずと話し始める。

「無理しなくてもいいんじゃないか、って言われたけど、わたしは無理をしたいのよ……

そうしたら」

 そこで一息ついた。

「夫が、いってはいけないことを言った」

 なにを言われたか、想像はつかないでもない。しかし聞き出せるはずもない。

「それをいわれたら、もう夫婦じゃいられない」

「……」

 それがどんな言葉かは、聞けなかった。

 みゆきは続けた。

「あのひとは言ったわ……頑張って欲しいけど、ほどほどに、って」

「ほどほど……」

 みゆきの表情が硬くなった。

「ほどほど、じゃないよ」

「なんだって」

「また今度とか、次の機会にとか、そんなことを真に受けてたら……」

「受けてたら?」

「死んじゃうよ」

「え」

「寿命が尽きちゃう」

「そんな、極端な」

「極端じゃないよ。思わない? わたしたち、若い子より、人生の残り時間が、絶対的に少なくなってるの」

「まあ、そうだけどさ」

「死ぬのはまあ、極端にしても、病気になるとかで、今までふつうに出来たことが出来なくなる可能性は、十分にある。そうなったとき、後悔しても遅いのよ」

「うーん、そうだね」

「すべてにタイムリミットはある。今日かもしれない。明日かもしれない。もう過ぎてしまったのかもしれない」

「そうはいってもさ……気長に見なきゃ。いったん腰を落ち着けて辺りを見渡せば、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない」

 なんとも陳腐な、受け売りの言葉を、毛受は発した。みゆきはきっとなり、返した。

「違うのよ」

「まだ再開して、一年経ってないじゃないか」

「もう一年経っちゃったのよ。大した成果もなく」

 真剣な表情だった。

「一〇年あれば、ずぶの素人が、世界一になれる。ほんとうよ」

「そりゃ、大きく出たな」

「ほんとうよ。オリンピックなら種目によっては一〇代の子が金メダル獲ったりするじゃない」

「まあ、分野にもよるよね……」

 みゆきの真剣さを受け止めかねて、表向きは軽く流そうとしたが、しかし、毛受は胸を打たれていた。

 そこまで、思い詰めているのか……。

 毛受は問うた。

「これから、どうするの?」

「マンガを描くわよ。朝から晩までマンガを描くわよ」

「いや、具体的にさ……」

 そして毛受は言った。

「どこに住むの? 実家に帰る?」

「実家は、ないわよ」

「えっ」

「去年母親が死んで、家はだれも住まないから、もう、うちのものじゃない……」

「……」

 毛受は嘆息した。

「じゃあ、今日泊まるところは?」

「どうにかなるでしょ」

「それからは」

「それから考える!」

 彼女の強情っぷりに、毛受は何も言えなかった。

「……仕方がないなあ。一日二日なら、うちに泊めてもいいか……」

「ありがとう」

 大井町から京浜東北線で、田端へ向かう。


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