第16話 実家

 長沼みゆきがパートを辞めてから、しばらく経った、秋の長雨時のある日。

ファミレスで会った彼女は、ちょっと憂鬱そうな表情で、切り出した。

「じつは……」

「なんだい」

「このところ、マンガを描いてると、家族の視線が……気を遣ってはいるけど、どうしても能率が下がっちゃう」

 彼女の家には、自分の部屋がないことが、ここにきて結構な負担になっているようだ。

とりあえずダイニングで作業していると言うが、「自分ひとりの空間」を持てないことは重大だろう。

「最近は夫が、いい顔をしない。毎日毎日夜中まで何やってるんだ、って。おまけにパートも辞めちゃったから。口ではきみの好きにすれば、って言ってるけど」

「たしかに、家族の協力は必要だな」

 みゆきはおもむろに話を変える。

「で」

「なに?」

「毛受さんをいちど、家に呼ばないか、っていってるのよ」

「おれが?」

 驚いたが、冷静に考えれば、たしかに、妻を連れ回している以上、旦那に挨拶しておく必要はあった。

 休日の午後、駅前で買ったケーキを携えて、長沼みゆきの家に向かった。

 長沼みゆきの住む家は、住所で言えば南品川、大井町駅から商店街を抜け、ゼームス坂を下ったところの入り組んだ路地の奥にあった。たしかにポスティングで通った界隈である。

 玄関の横には、キンモクセイが咲き誇っていた。

 ちょっと思い切って、インターフォンのボタンを押すと、みゆきの声がした。

「毛受です。お邪魔します」

 みゆきが玄関を開ける。その後ろには、夫が立っていた。

「はじめまして。みゆきの夫の賢一です」

 ラフな格好の中年男は、頭を下げる。

 年のほどは毛受と変わらないようだ。白髪がちらほら入った髪をなでつけ、線が細く眼鏡をかけた、いかにも大企業の管理職といった雰囲気の男だった。

「みゆきがお世話になっています」

「こちらこそ」

 多少ぎこちない挨拶を交わし、階段を昇った二階にあるリビングに案内される。

 南向きのリビングで、姑がお茶を出してくれた。上品な老婦人だ。

 それからは雰囲気も和み、話は弾んだ。

「いやー、旦那さんにぶん殴られるんじゃないかと、ヒヤヒヤしました」

「まあまあ」

 毛受にとって拍子抜けだったのは、自分に対する夫の反応が、意外に好意的だったことだ。

 はじめの緊張が嘘のように、打ち解けた雰囲気になった。

 夫はアルバムや記念写真を毛受に見せながら、彼の知らないみゆきのことを、いろいろと話してくれた。

「これは新婚旅行の写真ですね。これは去年、一家で温泉へ行ったとき」

 知り合ったのは就職してからで、マンガを描いていた頃の彼女は知らないということだ。

「学生時代のことは、すこしは聞いていましたし、単行本も見せられましたけどね。そんなにファンがいらしたとはねえ」

 子供はなく、この家に夫婦姑三人で住んでいるのだという。

話はいつしか、ふたりのなれ初めに及んだ。

「もともと、同僚の知り合いでして」

 いいひとがいるから会ってみないかと紹介されて、ほとんど見合い結婚のような感じで進んだようだ。結婚したのは彼女が二九のとき。

「行き遅れになりそうだったからよ」

 みゆきは口を挟んだ。「行き遅れ」とは、最近ではあまり聞かれない台詞だ。

「年頃の女の子とかけて、クリスマスケーキととく。そのココロは?『二五を過ぎたら売れ残り』」。昔はそんなジョークもあったくらい。当時の彼女がそんなイメージを持っていたのも不思議ではないだろう。

 そのとき一匹の猫が、現れた。太めのトラ猫で、長沼みゆきの脛にすり寄ったとき、彼女は抱き上げて、名前を呼んだ。

「ゆかり」

 その名前を聞いて、すこし驚いていた。

「オンサイド」に載っていた、彼女のマンガの主人公の名前だ。

 やはり、どこか諦めきれなかったのだろうか。それとも単に、彼女にとって思いつきやすい、語呂のいい名前をつけただけなのか。

 しかしそれを、彼女に訊くことは出来なかった。

「友達からもらったのよ……不妊治療を止めたとき」

 猫をソファの上に戻した。

「誕生日のプレゼントだって……もらったときは子猫だったけど、もうこんなに大きくなっちゃった。かわいいけど……わたしは猫が飼いたかったわけじゃない」

 みゆきは、ぽつりといった。

 リビングのガラスケースには、ゴルフのコンペでもらったものだという、トロフィーがいくつか飾られ。ほかに、高校時代の陸上部で撮られた集合写真が飾ってある。その隣には額に入った表彰状が並んでいた。

駅伝大会に出場したときのもので「区間優勝」と書かれている。

「すごいですね」

「ええ、学生時代はずっと陸上部にいまして、長距離をやってました。箱根駅伝に出たくて、大学も常連校を選んだんですが、結局いちども選手に選ばれることはありませんでした……。大学に入ったときはみんなが横一線のように見えて、負けない量の練習はしていたつもりなんですが……やっぱり、才能ですかね。三年四年になると、完全に差がついてしまった」

「そんなことがあったのですか」

「うちの近くを、第一京浜が通ってますよね。ぼくは子供の頃からずっと、正月にあの道を走るランナーに憧れていたんですよ。大学に入ったら絶対選手になって、第一京浜を走るんだ、って。でも、走れませんでした」

 感心していると、

「……いいことですね」

 不意に賢一は言った。

「なにがですか」

「今になっても、子供の頃の夢を追いかけられるのは、いいことですね」

「諦められなかっただけよ」

 みゆきは言ったが、その言葉を聞いて、毛受は思った。



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