第15話
討論は夜遅くまで続いた。深夜、帰宅して軽くシャワーを浴び、床についた。
しかし、ずっと頭を使っていたせいか、目が冴えてしまう。それでも布団を頭からかぶって、じっとして「寝た気分」になる。そうしないと、いつまでも寝付けない。
白々と夜が明けた頃にようやく眠気が襲ってきて、目が覚めたとき時計を見ると、三時四五分である。
(夜中に目が覚めちゃったか)
それにしては……カーテンの外が明るい。
(午後!)
飛び起きたが、どうにもならない。
机の上のスマートフォンを手に取り、画面を点灯させると、案の定着信が入っている。会社からだ。
仕方なく、会社に連絡した。
「はあ? あんた、何やってるの」
スマホから聞こえてきた同僚の不審げな声は忘れられない。
翌日は早く出社し、部長はじめ同僚一同に平謝りしたが、その1ヶ月後、またやらかしてしまった。
人数の足らない現場に朝一番で直行して、応援の仕事をしていたら、同僚から電話がかかってきた。
「どうして、こないんだ?」
詰問されて、手帳を確認すると、その日は別の現場の作業もスケジュールに入れていたのだった。
ダブルブッキングである。あまつさえ、片方をすっかり忘れていた。
午後にまたも会社に行って、平謝りするしかなかった。
課長は苦々しく言った。
「毛受君。きみ、社内でいろいろ言われてるの、知ってるか」
「どういうことですか」
課長は毛受の悪評を縷々述べる。
「やる気があるのか」
「ありますよ」
「そうか? みんな忙しいのに、君だけなんか暇そうじゃないか」
「暇じゃないですよ」
「きみ、基本的に、あの老健施設だけやってるよね。ほかのみんなは、あちこち掛け持ちで駆けずり回ってるのに」
「そうですか」
「もう少し、空気を読んでくれよ」
「……」
「だいたいきみはさ、自分のことしか、考えてないんじゃないか?」
課長は吐き捨てたが、自分のことは考えていなかった、と毛受は思っていた。
考えていたのは、ただひたすらに昼田ユキのこと、彼女がマンガ家として成功することだった。
みゆきが抜けた老健施設には、新しいパートがあっさり入った。
それまでなかなか決まらなかったのが、嘘のようだ。
みゆきがしていたのと同じ仕事を割り振って、教えていると、あっという間にみゆきと同じ仕事を覚えた。抜けたピースがきっちりはまって、以前と変わらず現場が回り始める。
その有様を見て、しみじみ思ったのだ。
みゆきがここでやっていた仕事は、所詮代替可能なものだ。いまの自分の仕事だって、自分が辞めれば、ほかの誰かがやるだけ。人手が足りているかはべつにして、
しかし、マンガはどうだ?
所詮読み捨ての娯楽で、打ち切られても、ほかにマンガを描きたいものは、いっぱいいる。
雑誌にとっても、読者にとっても、よりどりみどりのひとつ。
雑誌としては、そうだ。
しかし、受け手にとってはどうだろう
アンケートの数字はよくなくても、読者の誰かの心には残り続ける。
自分にとっての昼田ユキが、そうだったのではないか……。
だれかにとっての、かけがえのないひと。
その言葉が浮かぶと、胸がすこしうずいたような気がする。
しかし、次の瞬間、毛受は首を振った。
マンガ家としての成功はどうでもいい、なんて、いまの自分には、不純な言葉でしかない。
ノスタルジーに溺れるわけにはいかない。彼女と一緒に、前を見て、走り続けなければ。
八月。
恒例の「コミックマーケット」が開催される。
毛受はみゆきを誘って、行くことにした
「会場に行くのは午後からにしよう。この猛暑の中、並ぶのは大変だ」
最終日の日曜日、昼過ぎに大井町駅で待ち合わせて、りんかい線に乗った。しかし
「相変わらず、すごい人混みね」
みゆきは感心したように言った。
五月のコミッティーとは比べものにならない。
いちばん混雑する時間帯は過ぎたというのに、駅構内からビッグサイトに至る道は、びっしり人で埋まっているのだ。
日差しが強烈だ。
毛受はスポーツドリンクを差し出した。
「水分補給しないとね、熱中症になる」
「ありがとう」
長い通路を歩いて東館へ向かい。創作マンガ関係が集まっているコーナーへ行った。
紙袋を携えたオタクたちに、回遊魚のように行き交うコスプレイヤーたちと行き過ぎる。
あるブースの前で、毛受とみゆきは足を止め、中で売り子をしていた中年男性に挨拶した。
「お久しぶりです」
橋山真一。
やはり「オンサイド」の常連投稿者だった。
「どうも。ご無沙汰してます」
橋山は、かつては少年マンガ雑誌に連載していたはずだ。
びっくりした様子で問い返した。
「ええっ、昼田ユキさん? あなたが、そうなんですか」
「はい」
「驚いたな……最近、頑張ってるんですってね。期待してますよ」
「ありがとうございます」
端山は言った。
「きみも隅に置けないじゃない」
「そんなんじゃないですよ」
毛受は苦笑した。
みゆきは問うた。
「最近は、雑誌の方にはお出になってらっしゃいませんよね
橋山は話題を変えた。
「あのひと、知ってますか」
やはり「オンサイド」で常連投稿者だったひとだ。
「はい」
「やっぱり商業誌ではうまく行かなくてね」
「ずっと単行本が出なかったから。同人誌と、ソシャゲのイラストの仕事がなければ、食えなかったって」
「同人誌ですか?」
「ああ」
橋山のサークルは、いまやコミケで結構な人気サークルではある。
「二次創作の本は売れるね。だからどんなのが売れ線なのか、つねにアンテナを張って追いかけなくちゃいけない。逆に商業誌は、売れなくても原稿料が入るから、肩の力を抜いて描ける……まったく、どっちが趣味でやってるんだか」
にやりと笑ったが、こちらは笑えるはずもない。
コミケからの帰り道。みゆきは言った。
「次は、本を出してみようかしら」
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