第11話 過去と現実
梅雨時の、ある日。曇り空だが、雨は降っていない。
毛受はこの日、先週末に定期清掃に出た代休を取っていた。
昼過ぎ家を出る。秋葉原で乗り換えた中央線の電車を水道橋駅で降りる。
東口、東京ドームと反対側の出口で待ち合わせた。
毛受の姿が見えると、柱にもたれていたみゆきは手を挙げて応え、駆け寄る。
白山通りを神保町の交差点に向けて歩いていった。
神保町界隈は、表通りこそ学生時代そのままの店が並んでいるように見えるが、裏通りに入ると、その姿は大きく変わっていた。
小さな雑居ビルが並んでいた一角は、公園になったり区営の高層住宅が建っている。昔夏季講習を受けに通った予備校も無くなっていた。
昔「オンサイド」編集部が入っていた雑居ビルは名前も変わり、一階のラーメン屋には「新装開店」の花輪が飾られていた。
「ここだったっけ」
白山通りに面した喫茶店に入る。昔ながらの店構えで、この街にも押し寄せている再開発の波を免れ、残った店のひとつである。
「ご無沙汰してます」
掛川千華雄。
元「オンサイド」編集長で、現在は編集プロダクション社長である。
「Cさん」
その名前の方がなじみがあった。彼は「オンサイド」の創刊から廃刊まで、ずっと編集長を務めていた。誌面にはその名前で登場していたのだ。
そして、投稿者時代の昼田ユキに指導をしていたのも、彼だ。
つまり、彼女にマンガの描き方を教えたのは、掛川なのだ。
「すごい久しぶりですね、そう呼ばれるのも」
「そのせつは、どうも」
「いえいえ」
型どおりの挨拶で久闊を叙した。
「あれから、もう二〇年も経つんですねえ」
掛川はすこし遠い目をする。
「オンサイド」が廃刊した理由は、発行を担当していた会社の倒産だった。掛川のいる編集を担当している会社は無事だったので、他社から復刊する動きもあったというが、そのままになっている。
「水出しアイスコーヒー、三つ」
お冷やとおしぼりを持ってきたウエイトレスに、声をかける。
「ここのコーヒーは、いいんですよ」
掛川は編集長時代も、食通でならしていた。誌面にもそれが反映されていたのだ。
アイスコーヒーがとどいた。そのままストローでずっとすすり、話を始める。
「アレが潰れて、一〇年以上経つのかあ。まあ、月刊誌の編集なんて重労働から解放されて、ラクにはなったけどね。もらい事故みたいな廃刊だったけど、それから出版状況は悪くなる一方。細々とした仕事をかき集めて、ようやく食っているような状況ですよ」
「よろしくないですか」
「二十一世紀に入ってから、本格的に厳しくなったね。会社の経営状態が悪かったのは、だいたい分かっていたけど」
挨拶と軽い世間話をしてから、本題に入ろうとした。
「以前『オンサイド』に載せていただいたマンガですが、こちらで使って構いませんか?」
「好きにしていいよ。もう会社も無いから、それにうちは編集しただけで、権利を持っているわけじゃない……それと」
封筒を出し、長沼みゆきに渡した。
「うちで保管していたやつだ。いい機会だから、お返しします」
「ありがとうございます」
封筒から取り出し、中を確かめる。手描きの原稿は、たしかに一六枚あった。
マンガ専用原稿用紙でない、ケント紙は、端が黄ばみかかっていた。
「懐かしいな」
みゆきは目を細めた。
「ここにマンガを持ち込みしましたね。覚えてますよ」
「たしか、まだ高校生だった」
「はい、親と一緒に上京して、自分だけここに来たんです」
しばらく昔話をした後、掛川は切り出した。
「正直に言いましょうか」
カップをコースターに置き直し、口を開いた。
「今から、マンガ家になるのは、オススメしませんね」
「はい?」
「時期が悪すぎる」
肘を突いて顎に手を当て、話し続ける。
「昔、ぼくがこの編集部を立ち上げた頃。マンガ出版は日陰でした。マンガを出してる大手出版社に会社訪問して『マンガをやりたい』と言ったら、先輩はいい顔をしなかった。『マンガ屋なんて、なるもんじゃない。あんなのは出世を諦めたやつが行くところだ』とね。大手出版社である有名マンガ家を担当していた編集者の自伝に、こんなことが書いてありましたよ。
『うちの会社は定価十ン万の百科事典が何十万セットも売れているから、それに比べればおれたちがやってるマンガなんてゴミみたいなもの』。
たしかに、当時は『普通の家』だったら百科事典や文学全集が、居間の本棚にあるのが当然だった。子供の部屋には子供向けのそれらがね。みんな『教養』にコンプレックスを持ってたんだな。ある意味、当時の出版業界は美容整形やかつらのような『コンプレックス産業』だったといえなくもないな」
そこでちょっと皮肉な笑顔を見せた。
「だから、そんな『教養』を媒介しないマンガなんてものは、ガキが読むくだらないものとしか扱われなかった。マスコミには悪書とたたかれ、いくら会社の業績に貢献しても、マンガ畑の編集者はトップになれなかった。よくて子会社の社長。『あいつはマンガ屋だ』と、軽んじられていたんだよ。
しかしその後、百科事典も文学全集も売れなくなった。教養主義が衰退してみんながコンプレックスをもたなくなり、わざわざ部屋の飾りにする必要もなくなったんだ。一方、マンガは出版社のドル箱になった。マンガの単行本は、単価は安くても部数は桁外れだし、アニメ化すれば商標権料が入ってくる。海外にも巨大なマーケットがあることが分かった。かくしてマンガは日本を代表する巨大産業になった。それもまあ、昔の話になりつつある」
「ダメですか、マンガも」
掛川は黙って頷いた。
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