第9話

 大井町まで戻ったとき、みゆきに駅の改札で話しかける。

「時間があるならちょっと、寄っていかないか。面白いところがあるんだよ」

 そのまま池上通りを歩き、路地に入り、「ファットキャット」へ連れて行った。

 今日は宮口が店番をしていた。

 みゆきとカウンターに並んで座る。

「あら、はじめての方ですか」

「こちら、『オンサイド』の投稿者だったんですよ」

 みゆきは宮口へ頭を下げる。

「こんにちは。わたし、昼田ユキです」

「ええっ」

 宮口は目を丸くした。住所を聞いて、さらに驚いた。

「こんな近所にお住まいだったの?」

「世の中って、狭いですねえ」

 みゆきは感心したように口にした。

「今日は、買い出しに行ったんだよ。デジタル作画セットを一式ね」


 宮口はプロ活動の他にも、長年同人活動をやっている。

「いやー、二十一世紀になって、昼田ユキさんに会えるとはね。びっくりしました」

 満面の笑みで迎えた。

 宮口は問うた。

「昼田さん、お子さんはいらっしゃるの?」

 そういえば、まだ、訊いたことはなかったことに毛受は気がついた。

「いいえ……」

 答えが返ってくるまで、すこし時間差があったように思えた、

「宮口さんは?」

「中学生の息子がいるわよ」

「あら、いいわね。やっぱりオタクなんですか?」

「それがぜんぜん、オタクじゃないのよ。サッカーとダンスに夢中で、マンガなんか全然読まないのよ」

「リア充ですね。オタク英才教育はしなかったの?」

「小さい頃はいっしょにアニメとか見てたけど、今じゃ、日曜の朝にわたしが特撮とか見てると、息子の方が変な眼をしてるの。なんか、親の立場がない」

「それが、当たり前なのかな?」

「かもね」

 毛受は口にした。

「宮口さんが結婚したのは、三十歳の時だよね」

「うん、できちゃった結婚」

「はっきり言うねえ」

「ほんとだもん。旦那とは何年もだらだら付き合ってたから、このへんで年貢の納め時だと思った。でも、ちゃんと育ててるよ」

 毛受の母親は若くして結婚して、自分の年齢からするとまだ老けてはいない。

 中学の同級生には、二十歳前に結婚して子供を産んだ女の子もいた。

 だから、毛受にはもういい年の子供がいてもおかしくない、というか当たり前の年頃なのだ。

 しかし――。

 翻って、いまの自分はどうだ?

 大げさに言えば、自分の尻も拭けないような暮らしをずっと続けてきたのだ。

 定職に就いたとは言え、いまでも給料は、キャリアを積んできた同年代と比べれば、唖然とするほど安いのだ。


「わたしも、アレ以来、めっきり厳しくて」

 宮口は言った。「アレ」とはアニメ化作品のことを指しているようだ。

「それ以来、ずっと単行本が出なかったから……しばらく気分を変えようとおもったの」

 宮口はにやりと笑ったが、どう反応していいのか分からない。

 みゆきがお手洗いに立ったとき、毛受は宮口に声を掛ける、

「ところで彼女、作画ソフトの使い方を教えてもらいたいみたいだ。

 毛受はコーヒーをひとくち飲んで、いった。

「宮口さんの方が知ってるんじゃない」

「違うよ」

 彼女はいった。

「昼田さんはね、あなたに教えてもらいたいんだよ」

「そうなの?」

 その辺の心の機微は、まだ毛受にはわからない。


「……何にもなかった」

「ファットキャット」を出て、第一京浜まで歩きながら、不意にみゆきは、ぽつりといった。

「え?」

「わたしには、何もなかった。就職して結婚してから、今まで二十年経つけど、思い返せば蓄積したものがなにもない。なにも思い出せるものがない」

「じゃあ、投稿してたころは、充実していたの?」

「今にして思えば、そうかな」

 ふっと笑う。

「やっぱりわたしは、マンガを書いているときだけが、ほんとうの自分なのかなあ」

「OLや主婦では、満足できなかったということですか」

「そうじゃないけど」

 彼女は目を伏せた。そして、しばらく沈黙した。

沈黙に耐えられず、毛受は読ませて貰ったルーズリーフの話を振った。

「……アレがいちばんよかった気がする」

「どれ」

「マーメイドのごちそう」と題された、十六ページのネームである。


 真由美は普通の高校生、家はお寺。彼女はある日、寺の宝物殿に秘蔵されていた「人魚のミイラ」の封印を解いてしまった。

 真由美は人魚にとりつかれてしまい、水を浴びると人魚の身体になってしまう。そのかわり、自分の身体の一部を食べさせると、その相手を操ることが出来るようになった。

 身体の一部は切ると再生し、クッキーやマカロンに見える。

 真由美の恋の行方は……。


「えぐい設定が気に入った」

「面白そうでしょ」

 たしかに、アイデアのインパクトは強いが、可愛い感じの絵と淡々としたストーリー展開が、奇妙な迫力を醸し出している。

「完成させよう」

 毛受は言った。

 それから自宅で昼田ユキは作画作業に入った。

 彼女はまだ、ペンタブレットには慣れていないので、肉筆でペン入れをして、スキャナで読みこむ。そのデータをクラウドで送ってもらい、毛受のPCに入っているドローイングアプリで背景を入れていく。

 進捗状況を聞いて、毛受は提案する。

「おれが手伝うよ。背景くらいなら出来る」

 絵には自信があるなんてとてもいえないが、いまではフリーの背景素材が売っているし、スマホで撮った街角のスナップショットを加工して、貼ってもいい。今の時代、絵心が無くても、かなりのことが出来るのだ。


 一週間ほどして、十六ページの作品が完成した。プリントアウトしたものを、読ませてもらった。

「いいんじゃないかな」

「どうする?」

「持ち込みかな。それとも、新人賞に応募するか。最近じゃ、SNSにアップするという手もあるね」

「うーん」

 毛受はすこし考えて、いった。

「いい考えがある。持ち込みをしよう」

「持ち込み? 古典的ね」

「古くて、新しい手だよ。ちょうど、こんどの休日に、コミッティーがある」

「コミッティー?」

「同人誌の即売会だよ。有明でやる、創作専門のイベントだ。そこに出版社の持ち込みブースが出ている。結構繁盛してるんだ」

「行ってみたいな」

「行こう」


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