第7話
そんな日が、一月ほど続いた。そして木曜日の仕事が終わって、毛受は長沼みゆきに声をかけられた。
「ちょっと、このあといいですか?」
「いいですよ」
あの日と同じ喫茶店「ファットキャット」に、今度は彼女の方から誘われた。
「これを見て」
ぱんぱんに膨らんだ鞄から、ノートやスケッチブックを何冊も取り出した。
「以前から、たまに描いていたの」
ぱらぱらとめくってみる。顔やスタイル、背景などが鉛筆で素描されている。かつて紙面に載った、そのままのタッチだ。
「あなたと話しているうちに、まず絵の描き方から思い出さなきゃ、と考えたの。で、大きな本屋に行ったら、イラストの描き方みたいな本がいっぱい売っているのね。驚いちゃった」
「今は、マンガやちょっとしたイラストがかけるひとだったら、そこいら中にいますからね」
マンガのネームのようなものを書き付けたページもある。
「……やっぱり、マンガが描きたかったんですか」
小さく息を吐いて、答えた。
「ずっと仕事をしていて、主婦をしていて、マンガのことなんか忘れていた。読まなかったわけじゃないけど、描く気になんかなれなかった。嫁入りするときに、道具もみんな捨てちゃったしね」
「それは、思い切りましたな」
「モラトリアムも、もう終わりだと思ったから。これからは社会の中に入って、家庭を作って家族と過ごす人生に入るんだと」
こないだも聞いた話だが、そのとき、疑問が浮かんだ。
「旦那は、そっちのひとじゃないんですか」
「ええ、全然。職場の同僚がらみで知り合ったんだけど、いまどき珍しい部類の仕事人間。あんまり趣味に生きるひとじゃない」
「不満があったんですか?」
ぶしつけだとは思ったが、言葉にしてしまった。
「……子供ができなかったのよ。結婚したのは二六だったけど、いつまで経ってもその気配がなくて、三五の時から焦り始めた。不妊治療を受けていたけど、年を取って時間切れ。その数年前、会社でもリストラに遭った。やることがなくなっちゃったのよ。仕方ないから、パートに出ることにした。そしたら、あなたに会って……」
「で、もう一度挑戦してみたくなった、というわけですか」
みゆきは頷いて、いった。
「このまま、掃除のおばちゃんで終わるのかなあ。そう思ったら、むなしくなっちゃった」
「なるほど、覚悟を決めたわけですな」
「そんなところ」
ちょっと胸を張って、いった、
「まだまだ大丈夫ですよ」
「ずいぶん自信満々ね」
「まあ、業界からは足を洗ったけど、まだ事情を知らないわけでもないしね。あなたが本気なら、手伝いましょう」
「ほんとですか?」
「まだ伝手も、なくはないしね」
そういって莞爾と笑った。
「うれしいですよ。昼田ユキのカムバックに協力できて」
「悪いですね」
みゆきが恐縮するように言ったら、毛受は言葉を返した。
「誤解しないでくれ。これは賭けなんだよ」
「賭け?」
怪訝そうな眼で毛受の顔をのぞき込む。
「そうだよ。この年から本格デビューした女性が、人気マンガ家になった例はあまりない。きみに賭けたんだ。挑戦だよ。前人未踏のチャレンジャーとしてマンガ史に名を残すんだ」
長沼みゆきは、うなずいた。
「決まったな」
テーブルの向こうから手を差し出す。彼女はその手をとった。そして、固く握り合った。
「あなたが、焚きつけたのよ」
「そうだけど……」
「責任取ってね」
彼女はいたずらっぽく言った。
家に帰って、毛受は昔のことを思い出した。
ライターをしていた頃も、「オンサイド」に登校していた頃の話が出ることが何度かあった。業界には、あの雑誌の投稿者、あるいはかつて愛読していた者は意外に多かったのだ。
「載ってましたね」
そう声をかけられたことも、一度ならずある。
この界隈に「昼田ユキ」の名前を覚えているものも、かなりいるはずだ。うまく仕掛けていけば、それなりに、いけるかもしれない。
胸の高鳴りが抑えきれなかった。
その晩はなかなか寝付けなかった。
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