第6話

 次のシフトの日。

 すこし心配したが、彼女はやってきた。

 窪寺さんとのトラブルも、表向き収まった。定着してくれそうだが、しかしまだ必要な人数が足らないので、応援に入る日々も続いていた。

 違ったのは休憩時間に、長沼みゆきと雑談をするようになったことぐらいか。

 現役でその手の文化に触れていないようで、昨今のオタク事情が興味深そうだった。

「へえー、今のコミケって、そうなってるんですか」

「行ったことありますか?」

「学生時代、何度か」

「富山にいたんでしょ」

「オンサイド」に載った、彼女の投稿にあった住所表記は「富山県」だった。それに、彼女のマンガに、富山の大学に通う男女のラブコメディがあったのを思い出したのだ。

「うん」


「じつは」

 話が盛り上がった頃合いを見計らって、鞄から「オンサイド」をちらりと見せた。

「いやだなあ」

 みゆきは苦笑したが、他のパートさんが帰ったとき、開いて、ふたりで読んだ。

 一九九六年三月号。

 表紙は当時、社会現象になっていたアニメのキャラである。アニメーターではなく投稿イラストをクリーンナップして載せている。

 カラーページに大きく載っていた女の子のイラストを指さし、言った。

「魁皇ごんさんでしょ。このひと、好きだったなあ。今も頑張ってるの?」

「一時期商業誌にマンガを執筆してたけど、最近は見ないね。でも、同人は出してる。こないだのコミケで買った」

「プロじゃないの?」

「いまはプロとアマの境が、あんまりないんだよね」

「いい時代になったのね」

「きっと、オンサイドがそのさきがけだったんだよ」

 会ったこともない、顔も本名も知らない。しかし、誌面で投稿を見るだけで、なんとなく「繋がっている」ように思える。今ではネットやSNSの登場で当たり前になりつつあるが、そんなものが普及するずっと前から、雑誌に投稿することによって、そんな人間関係に慣れていた。

 この前入った喫茶店に河岸を変えて、ふたりだけの「同窓会」は続いた。

 彼女のマンガは、理系大学のキャンパス生活を描いたもので、当時理系ネタを描く女性マンガ家は珍しかった。

「大学も理系を選んだけど、研究者なんて無理だったし、あの頃は教師も狭き門だった。で、就職氷河期でしょう。必死の思いで入った会社、そう簡単にやめられない。結婚してもしがみついて十年経ち、十五年経ち……」

「あなたみたいに、就職してマンガの世界を『卒業』していったひとも多いでしょうね」

「そうかも」

「時折思い出すことがあるんだよね。よく誌面で見たあのひと、今なにしてるのか。もう絵は描いてないのか。マンガ家にもアニメーターにもならず、市井のひととして生きているのか」

「知りたくもあり、知りたくもなし、ですねえ」

「べつに、不幸になってるって、思ってるわけじゃないですけどね」

「わたしも」

 そのとき、毛受はこの前訊きたかったことを、ぽろりと口に出してしまった。

「あなたはどうして、マンガを描くのをやめてしまったの?」

「えっ」

「てっきり、プロマンガ家の道へ進むものだと思っていた。その意思も能力もあるように見えたから」

 この言葉を口に出してしまって、毛受は次の瞬間「しまった」と思った。聞かれたくないことかも知れなかったので。

 しかし彼女は、意外にあっさり答えてくれた。

「自信がなかったのよ」

「?」

「就職とか結婚とか、人生の節目がきたら、きっぱりやめようと思っていたわ。学生気分は捨てなくちゃ、って」

「そうですか。昔の同人作家さんには、そんなひと、よくいたよね」

 毛受たちの若い頃は、マンガを描いたりすることなどは「モラトリアム」のあいだしか許されないものだという認識がまだ残っていた。就職したり、結婚したら「卒業」するものだと。それでも続けているのは、プロか環境に恵まれた一部の「好き者」か、いずれにしても「堅気」の人生からは外れた存在だと。

 みゆきはグラスに残った氷をストローでつつきながら、言った

「所詮、受けているのは、あの雑誌の内輪だけかもしれなかったし、マンガで食べていく自信もなかったし」

「試してみればよかったじゃないですか」

「簡単にいうけど……」

「いや、見たかったですよ。昼田ユキの絵が有名マンガ雑誌の表紙になったり、アニメになったりするのが。それにさ、今からでも、叶うかもしれませんよ」

「まさか」

「最近のマンガ雑誌は、新人賞に五〇過ぎのひとが通ったりしているよ。それに、コミケに行けば、貴方ぐらいの年で同人やってるひとがいくらでもいる。プロじゃなくてもさ」

「知ってるけど、ブランクがありすぎるし」

「今からだって、大丈夫だよ。人生いつからでも再スタートできるんじゃないかな?」

「そうかもね」

 話を変えた。

「矢口高雄先生を知っていますか」

「釣りのマンガの……」

「そう。釣りマンガの大家。子供の頃大好きだったんだけどね。まあそれはいいとして。あのひとがデビューしたのは三〇歳のときだった。今ではそんなひと、ざらにいるけど、当時はマンガなんて子供が読むもので、マンガ家さんも高校出てすぐとか、中学出で働きながらマンガを投稿してプロになるパターンが多かった。でも、矢口先生は高卒で地元の銀行に就職した。出世も順調で、この時点でお子さんがふたりいらしたそうだ。これでマンガ家の夢を追おうなんて、無茶もいいところでしょ? でも子供の頃からの夢を諦めきれなくて、マンガ雑誌に投稿するようになった。コンスタントに載るようになったら一念発起して脱サラ、人気マンガ家に……いい話でしょう?」

「いい話だけど、それは成功したから」

 長沼みゆきは笑った。

 気がついたら、すっかり外は暗くなっていた。

 ふたりはお互いの喜ぶツボを心得ていて、いくら話をしても話題が尽きない。毛受は彼女を、まるで長年の知己のように感じていた。

 それはあながち、錯覚ではない。

 だって、お互い、二十年以上前から知っている同士なのだから。

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