第3話

 日々の暮らしを安定させなければならない。

 ネットの求人サイトを閲覧してみたが、果たして自分に出来る仕事はあるのか、不安だった。

 履歴書に堂々と書けるような経歴はないし、これといった資格も持っていない。ひと付き合いが好きではないので、営業は無理そうだ。自分の年齢では、自動車工場の季節工の仕事にもありつけない。結局、コンビニバイトするしかないのか……と思いつつ、コンビニに行った。

 様々な注文を手際よくさばいている店員を横目で眺め、おれにこれが出来るのか、とぼんやり考えながら棚を眺めていると、雑誌コーナーの端のほうに、マンガの単行本などと一緒に「いざというときトクする方法」というタイトルの本が並んでいた。

 なんとなく手に取ってぱらぱらとめくると、生活上様々なアクシデントに遭ったときの対処法や、公的その他の援助について書かれている本のようで、失業したときの税金や社会保険の減免や補助金のもらい方についてなど、今後の生活に役に立ちそうなことも載っているようだ。

 買い求めてじっくり読むと、公的な職業訓練校のことが載っていた。

 授業料無料で通え、その間は失業保険が受給される。自分のように雇用保険に加入していないものでも、条件を満たせば一定の給付金がもらえるというではないか。

(今のおれのようなものには、うってつけだ)。

 調べてみると、自宅から電車で通いやすいところに都立の職業訓練センターがあった。

 どんな科目があるのか。サイトに依ればプログラミング科、配管科、マンション改修科、介護士養成科、ビルクリーニング科、などがあるという。いまさらプログラムなんかを習っても職には結びつかないだろうし、DTPの経験はあるが、覚えても雇ってくれるのか。配管工はちょっとイメージじゃない。介護でお年寄りを相手にするのは苦手かもしれない。マンション管理ってのは、もっと高齢者向けだし……。

 いろいろ考えた末、ビルクリーニング科に申し込んだ。ビルの清掃は、学生時代のアルバイトで経験があったからだ。

 簡単なテストと面接の末、合格した。二〇一六年の春だった。

 それから半年間は学生に戻った。ニートや定年退職した初老のおっさん、シングルマザーなんかと机を並べて勉強することになった。

 教わったのは掃除の実技、床を磨く機械であるポリッシャーの使い方や、仕事を請け負ったときの見積もりの出し方、労働関係の法規の講義など。PCソフトの授業は表計算、プレゼンなどオフィスアプリの初歩的な使い方を教える(これは楽勝だった)。

「知ってるか、これから仕事はどんどん人工知能に奪われていくけど、最後に残る仕事は、ビル掃除だ。細かい作業が多い上に、パート中心で単価が安いからな。あと三〇年もすれば、弁護士も税理士も失業して、ビル掃除が勝ち組になってるんだ」

 同級生と、そんな軽口を叩いたのも覚えている。

 半年後、訓練の甲斐あって、ビル管理の会社に就職することが出来た。

 会社説明会に出席したとき「就職は楽勝だ」と思った。生徒の数より参加している会社の方が多かったから。

 そのうちの一社に履歴書を送ったら、あっさりと就職が決まった。ベルトコンベアに載っているようで、こんなに楽ちんでいいのか、という半年だった。

 就職したのは、JR大森駅前にオフィスがある小規模な総合ビル管理会社だった。社長に部長に課長が、同じフロアで仕事をしているようなところだ。

 形ばかりの研修を受けて、任された仕事は、現場のパート管理である。

会社が請け負った建物の清掃を統括し、入ってきたパートに仕事を教えたり勤怠を管理したり、現場の消耗品を注文したり、というのが主な仕事だ。無論、パートのやりくりが付かない時間帯は、自分が現場に入って清掃をすることになる。

毛受が担当したのは、老人介護施設だった。

 品川区の大井、池上通り沿いにある、三階建ての大きめの建物である。

 いままでとは一八〇度違う仕事で、はじめのうちは悪戦苦闘が続いたが、そのうちなんとか一応はうまくいっていた、と毛受は思っていた。

 しかし、悩みの種は人手不足だ。

 時給上げの圧力がかかり続けているこのご時世、ファストフードもコンビニもどんどん時給を上げているが、下請けである以上、請負元と契約している料金の範囲で人件費を出すしかない。

 ただでさえ、汚れ仕事である清掃は、レジ打ちや接客に比べると人が集まりにくいのだ。

 何度も広告雑誌や求人サイトに広告を出していると、そのたび金がかかって仕方がない。苦肉の策として、ビラを印字して、職場近隣の家にポスティングすることにしたのである。

「来ますかねえ」

「来てもらわなくちゃ困るよ」

 ポスティングする求人ビラを作っていて、部長と愚痴をこぼし合った。

 老健施設の清掃にヘルプで入った帰り、近所を歩き回って一軒一軒ポスティングした。細い路地を入り、アパートの集合ポストや民家の新聞受けにビラを突っ込んでいく。

「ビラ配り禁止」と書いてあるマンションに入っていって、管理人に怒鳴られたこともある。

 丹念に配っていくと、数百枚があっという間になくなった。会社に戻ってコピーを取り、別の地域にポスティングする。それを何日も続けた。

 翌週月曜日。

 朝から現場に応援に入り、午後、本社で事務仕事をしていると、机上の電話が鳴った。手が伸びたが、隣の席の部長が先に受話器を取った。電話を切るとこちらを向いて、いった。

「あの現場の希望者だ。明日午後二時、現場で面接をやる」

「やった」

 そして翌日。

 面接は現場の老人介護施設で行うと伝えていた。午前中は現場に応援に入り、約束の少し前に清掃員控え室で落ち合うことになっている。

「続けば、いいですかね」

 部長とそんな話をしていると、控え室の扉がノックされた。

 開けると、髪の長い眼鏡を掛けた中年女性が立っていた。細いジーパンにカーディガン。地味目の出で立ちだ。

「失礼します。パートの面接に来たのですが、こちらですか」

「長沼みゆきさんですか」

「はい」

 彼女が応募者であるようだ。

廊下の奥にある、パートの詰め所に通した。詰め所の入口側は休憩スペースでソファとテーブルが置かれ、奥には男女別のロッカー室がある。

「こんにちは」

 ソファに部長と並んで、彼女と差し向かいに座る。まず部長が名刺を出して挨拶をした。

「わたくし、部長の丸山です」

 続けて名刺を差し出し、一礼した。

「担当の毛受です」

「メンジョウさん……ですか」

「はい、この漢字でこう読みます」

 たしかに全国的に見ても少ない名字なので、読みを訊かれるのはいつものことだ。

「さっそくですが、履歴書を拝見させていただきます」

 差し出された角封筒から履歴書を取り出した。市販の用紙に丁寧に手書きされ、スピード写真が貼られている。

 現在の年齢は四十五歳とあるが、目の前の彼女はスリムな体型をしており、歳よりも若く見える。

 現場のわりと近所、南品川に住む主婦で、大卒後ずっと会社勤めをしていたが、三年前に退社し、現在は専業主婦、なのだという。

 履歴書に目を落とした部長が、いった。

「大学、国立大の理学部ですか」

「はい。教師になりたかったんですが、うまくいかなくて、民間の会社に就職しました」

「なるほど。趣味は、マンガイラストとありますが……ひょっとして、オタクですか?」

「え?」

 彼女は面食らった表情をした。

「よかったじゃないか。お前もオタクだろ」

 いきなり話を振られて、戸惑った。

「歓迎会のカラオケで、アニソンばっかり歌ってたし、なあ」

「そうですが……いや」

 毛受は苦笑するばかりだった。長沼みゆきは、答えた。

「昔、すこしやっていたのですが……最近は、あまり描いてませんね」

「なるほど。まあそれはともかく……」

 毛受は本題に話を戻した。

「これまでに清掃のお仕事をした経験はありますか?」

「初めてです」

「まあそれほど難しい仕事ではないですよ。でも、トイレの清掃に抵抗はないですか?」

「ないです」

「週のうち、何日入れますかね?」

「四日くらいは」

「土日出勤は大丈夫ですか」

「はい」

「いいですねえ」

「……いいんじゃないか」

 毛受と部長はうなずきあった。

「じゃあ、水木土日でお願いします。勤務時間は平日と土曜日は八時から午後四時まで、日曜、祝日は午後の仕事なし、午前十一時までです」

「了解しました。ありがとうございます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る