四 星影
肌を締めつけるような、凍てつく夜だった。
空に近いその山は、既に真冬の寒さに包まれていた。すり鉢の底のように広がる山の頂で、村々は遠く眠りに就いている。頂を囲む嶺に、夕星はひとり立っていた。葉隠はいない。
月のない天上にところどころ、星明かりが散った。
床に就く前に解いた髪は、背後の北から吹く風に靡いていた。遠い闇に鎮座する頂のなかの頂は、暗い影となってわだかまっている。目を細めてその場所を見やったとき、夕星は足元に鳴動を感じた。
昔、鞠智彦に襲われた夢の中よりはっきりした、長い揺れだった。罔象姫が予告した地中の火は、着実に歩を進めている。銀砂のような星を見渡して、夕星は息をついた。
伊都へ身を寄せてから、夢で渠帥者に会うことはなかった。だが、なぜかひとりでここへ来ることはできた。智鋪から熊襲へ北風が吹く夜のみではあったが。阿蘇津彦がつないだ夢の通い路は、彼がいなくても通ることができるらしい。
熊襲の兄弟に狙われることなく、夕星はときおりこの頂を見に来ていた。地の震えは、起こるときもあれば起こらないときもあった。それでも回数を重ねるうちに、鳴動が間隔を狭めていること、震えの強さや長さが増していることはわかった。
高良彦に熊襲の山の噴火を断言できたのは、大地の震れを何度も見ていたためだ。
夢で阿蘇にいる自分に、最初気づいた時は焦った。だが風があることを奇妙に思った。それまでの夢で、風はひとつも吹かなかったから。
どうやら呪いで呼び出されたのではない、と悟った。実際、鞠智彦は現れなかった。
その後も何度か北風の夜、ふと気づくとここに立っていた。いつもひとりで、誰かが現れることなどなかったから、鍛えられた武人のかすかな足音に気づくまで、随分かかってしまった。
音のした方を見やった夕星は、その場に凍りついた。
「久方ぶりだな」
夢で一言も発したことのない鞠智彦が呟く。夕星は突っ立って、緩い夜風の音をただ聞いていた。
夕星の焦りと裏腹に、鞠智彦はかつてのような猛々しさを見せることはない。相変わらず削り出された岩のように雄々しい武人ではあったが、夕星を捕らえようとはしなかった。ただ静かに泰然とした、堂々たる熊襲の長だった。
彼はゆっくりと傍までやってくると、珍しいものでも見るように夕星を見つめた。単純な驚きだけでなく、長年待ち続けた誰かを見るゆえの、感慨といじらしさが透けて見える。
獰猛に襲い掛かられるより、かえって戸惑った。
敗北の腹いせに欲望をぶつけたかっただけかと思いきや、こんな顔を見せられたらそうは言いきれない。逞しい武人がこれほど初々しい当惑を浮かべるのを初めて見たが、背後にある気持ちはなぜか想像がついた。
それを言葉に出すほどには素直でないと見えて、彼は淡々と言った。
「阿蘇津の手引きなしにも其方に会えるとはな。其方のほうから俺に会いに来たのか」
「そんなわけ、ないだろう」
間髪入れずに返すと、鞠智彦の顔に動揺が浮かんだ。夕星は我知らず同情したが、警戒されないようにとひとまず言い繕った。
「気づいたらここにいたと言うだけだ」
「其方はいま、どこにいるのだ。智舗の都は離れたのだろう」
居場所を突き止められたらまた呪いで追われるので、夕星はすぐに言い返した。
「言うわけが、ないだろう」
「そうか」
残念そうに呟いた鞠智彦は、頂の底に広がる自国を伏し目がちに眺めた。夕星は横あいから彼を窺い見た。歳の頃は、自分より五つか六つ上だろう。
若くして父王を亡くした彼は、随分前からいまの位に就いていると聞いた。若く勇ましい横顔に、深い悩みも影を落としているのはそういうわけなのだ。
夕星の視線に気づいた鞠智彦と、目が合った。彼は自嘲気味に笑みを浮かべた。
「俺が其方を襲わないのが不思議か」
夕星はうなずいた。淡い星の光に、彼の射干玉のような黒髪が照らし出される。
「そうしたところで、姿を消されるだけだからな。今宵は阿蘇津彦もおらぬので、熊襲のために其方を襲う必要もない」
妙に胸の締めつけられる思いがした。鞠智彦の中に、誰とも分かち合えない重荷の所在を感じ取ったからであり、彼が夕星を慕っていることをいよいよ感じたからでもあった。
「そなたは高良彦の后ではなく、
驚いて目を見開くと、鞠智彦は面白そうに笑んだ。
「どうして、それを」
思わずつっかえながら尋ねた時、相手の不敵な笑みが目に入った。
「言うわけが、ないだろう」
憮然とした夕星だったが、鞠智彦に多少の機知があることは認めざるを得なかった。
「それはそうだが。高良彦殿の后とは、見くびられたものだ」
「
一体どこから知ったのだろう、と思いつつかぶりを振る。
「智舗の誰とも、娶せられる気はない」
鞠智彦は忌々しげにため息をついた。心底やり切れないという趣だった。
「だったら俺の后になればよかったのだ」
「そういうことではない。慕う相手がいる」
急に苛立った様子で、鞠智彦はこちらに顔を向けた。揺れる炎のように怒りが閃く。
「どんな輩だ」
「出自は知らない」
一体何を言っているんだ、と言いたげに鞠智彦は顔を顰める。
「そやつと娶せられるのか?」
「多分、ないであろうな」
「何を言っているのか、さっぱりわからん。からかっているのか」
夕星が首を振ると、鞠智彦は憤然とこちらに向き直った。
「俺は其方と、味方同士で会いたかったのだ。熊襲の渠師者と智舗の臣下としてではなく」
やや声を高くしていたが、一時の感情が迸っただけでないことは察せられた。夕星は静かに彼を見返した。
「北の国境で逢った時に、そなたを攫って来ればよかった」
水分の里で鞠智彦を見た時が思い出された。あのとき、まったく心が揺さぶられなかったと言えば嘘になる。
だが鞠智彦がどれほど言葉を並べようと、心を委ねたい相手が変わることはない。
「そなたも、俺が目も合わせられぬほど忌まわしいというわけではないだろう」
鞠智彦は言い募った。胸の内が顔に表れていたのは、自分も同じと知って苦笑する。
「見目麗しい相手に胸を高鳴らせるのは、簡単なことだ。真実誰かとわかりあうことに比べれば」
「御託が聞きたいのではない」
言いながら彼は夕星の肩を掴んだ。帰らねばならないと、その時思った。
「私はもう、ここに来ることはない。二度と会うことはないだろう」
遠からず火の山が暴れ出し、熊襲と智舗は戦を交えることすらない。いずれ鞠智彦や阿蘇津彦も知るだろう。
聞いているのかいないのか、星影を背に鞠智彦は夕星の顔を矯めつ眇めつしている。その寂しげな様子に、夕星は彼の手がわずかに頬に触れるのを許した。
火の神
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