五 噂

 高良彦は、夕星が月読の短剣を帯びることを許さなかった。勾玉は首に着けさせても、短剣は召し上げると言って一歩も譲らない。


「影になるのは級長戸辺の娘です。月読の神宝は関わりがないことのはず」


 強い口調で言い募った夕星に、高良彦はにべもなく言った。


「如何にも。大王の衣を着てここに留まるのは、風読だけで良い」


 ゆえに神宝は要らぬ、と吐き捨て、高良彦は短剣を奪った。昼間のことだったので、葉隠は現れることができなかった。


「葉隠」


 は、と低い声が答える。


「すまない――月読の神宝を奪われるとは」


 姉を喪ってからの高良彦は、しばしば攻撃性を剥き出しにした。夕星も葉隠も、信頼してよい相手とは最早思っていない。無意識に息をつくと、彼が言った。


「お許しを戴ければ調べてまいります。短剣がどこにあり、王弟が何をしているか」

「其方の務めは護りだ。間者ではない」


 反射的に口にしていた。護りの役割を超えて彼に甘えたくなかったからだが、返って来た声はあくまで冷静だった。


「護りに資することであれば、私の務めとなります」


 どこか諭すようなその口調に、目頭が熱くなった。同時に、感じないようにしていた不安が溢れる。


「ありがとう。早速、行ってほしい」


 言い終わるか終わらないかのうちに、葉隠の気配が離れる。目に涙が滲む前に、往ってくれただろうか。


 衣の下にある月読の勾玉に、夕星は手を当てた。


 庭へ出て風に当たることもできないからか、体調は芳しくしない。だが勾玉に触れると、いくらか息が楽になる気がする。そう思うしかなかった。





 ほどなくして熊襲との国境から報せがあった。


 山鹿やまがで小競り合いがあったという。現地へ向かうことになった高良彦は、いったい熊襲の山はいつ火を噴くのだ、と嫌味を吐いて出立の準備にかかった。澄み渡るような秋晴れの日だった。


「どうかされたのですか」


 溜息を葉隠に見咎められ、夕星は覇気のない声で返した。


「長らくこの広間にしかいないのだ。気も滅入る」


 じっさいは、動き回れないことより、自分の存在を誰にも知られないことが辛かった。だが致しかたない。元々、夕星の名を呼ぶ者は葉隠だけだった。郷里を追われた時点で、夕星はもう死んだのだ。代わりに朝霧という亡霊がここに棲みついたに過ぎない。


「何か新しいはなかったか」

兵庫つわものぐらから、大弓が一つなくなっていたそうです」


 物騒な内容に、夕星は眉をひそめた。


「山鹿へ発つための武器を用意していて、数が足りないのに気付いたと。何月も動かしていないので、なくなるはずはないそうなのですが」


 不可解な話だった。間違いでないなら、誰かが持ち出したことになる。


 不意に眩暈を覚え、夕星は目を瞬いた。


 無意識のうちに胸の勾玉に手を当てる。最近はこの眩暈に頻繁に見舞われるようになっていた。


「夕星様――」

「何ともない」


 葉隠は夕星の具合を気にして、よく声を掛けてきた。風に当たれないことが影響しているのは間違いないが、暮らしを変えられない以上何を言っても仕方がない。夕星は無理やり話を変えようとした。


「他には何かあったか?」


 一拍の間を置いた後に、葉隠が答えた。


「新入りの舎人が、白露殿を妻に迎えそうだと」


 夕星は力なく口の端を上げた。


「めでたい話だな。舎人の名は何という」


 葉隠は抜け目なく把握していた。


喜八きはちというそうです」





 暮れなずむ砦の中を、鞠智彦は自室へ戻ろうとしていた。


 配下の者に習練の相手を頼んでいたが、夢中になるうちについ長引いてしまった。秋も深まってきたので、汗ばんだ体に風が冷たい。虫の声が、うるさいほどあたりに響きわたっている。


 片手で大刀たちを振るうことには慣れたが、以前のように行かないのは事実だ。この格好でまた戦を仕掛けられるかというのが、懸念の一つだった。それもあって、一度習練を始めるとなかなかやめることができない。


 気の早い篝火の照らす部屋に着き、短甲を外そうとしたとき、鞠智彦は奥に佇む女に目を止めた。見慣れない姿だが、見覚えはある。息を呑み、華奢な横顔を眺めた。


 射干玉のように黒い髪に、白い肌が映えていた。頬は夕陽で薄紅に染まっている。憂いのある目元には強い意志が秘められていた。娘は鞠智彦に気づくとこちらに向き直った。


「――どうしてここに」


 絶句していた鞠智彦がようやくそう口にして足を踏み出すと、娘は小首を傾げてこちらを見返してくる。紅の光が映り込む眼に、彼は釘付けになった。


 文字通り夢にまで見た相手が、数歩の距離に立っている。胸が早鐘のように鳴るのを抑えながら、鞠智彦は左腕に力を入れようとした。相変わらず感覚は通わないが、それは目の前の光景が間違いなく現であるとの証だった。


「待っていた」


 そう呟いてもう一歩を踏み出した。しかし、ゆっくりと開かれた娘の唇から聞こえてきたのは、腹が立つほど聞き慣れた声だった。


「やはり其方は誰よりあの娘に逢いたいのか」


 突然響いた阿蘇津彦の声に、鞠智彦は露骨に眉を顰めた。


「何だと」


 娘の姿は一瞬で掻き消え、後には驚いた面持ちの阿蘇津彦が現れた。彼にとっては忌々しいほどに見慣れた顔である。ところが兄のほうは、弟の怒りもどこ吹く風だった。


「あるまじないを試していたのだが、これほど上手く行くとは思わなんだ」


 鞠智彦は、歯ぎしりせんばかりの勢いで阿蘇津彦を睨みつけた。


「一体何のまじないだ。なぜ俺で試した」

「相手が最も逢いたい者に化けられる目くらましだ。目下の者を付きあわせるのは気が咎めるので、身内を相手にした」


 いけしゃあしゃあと言ってのける兄に、鞠智彦は思わず声を高くした。


「そんなものを俺で試したのか」

「すまぬな。だがお前が一瞬で顔色を変えるのを見て、俺が誰に見えているかすぐに想像がついた」


 鞠智彦はほとんど怒鳴るようにして言った。


「叩き斬られたくなかったら出ていけ」


 当人以外に知られたくないことに、無遠慮に踏み込まれた怒りはとめどもなかった。認めたくないことだが娘への思慕は、鞠智彦のもっとも繊細な心情をあらわにしてしまう。


 痛烈な声を浴びせられた阿蘇津彦はようやく、弟の強い憤りに気づいたようだった。


「そうする」


 早々に出て行こうとした兄に、鞠智彦は残っていたわずかな分別をもって尋ねた。


「そんなもので日向大王が殺められるのか」


 こちらを振り向いた阿蘇津彦は、鳴り響く虫の声に負けないように言って寄越した。


「これだけでは無理だ。間者の力が要る」


 何か余計なことを言いたそうな表情を見逃さず、鞠智彦は喧嘩腰に詰め寄った。


「何だ。言いたいことがあるなら言え」


 阿蘇津彦は、悪気など一つもないと言いたげな顔つきを作ってから言った。


「恋する男は弱い」


 乱暴に歩み寄ろうとした鞠智彦のもとから、阿蘇津彦は早足で去った。あとには苦虫を噛み潰したような顔の鞠智彦だけが、黄昏の光の中に突っ立っていた。

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