八 盈月

「いかがすれば――」

「阿蘇津彦は自分のつけたしるしをたどってそなたを見つけ、夢に入り込んだ。だがここを離れれば、あれは夢に現れなくなる。楔となる矢傷が癒えた今、ふたたび其方を探すことはできぬからな」


 背後に足音がした。振り返ると高良彦で、月明かりの中を広間に入ってくる。大王の表情が残念そうに見えたのは、気のせいだったろうか。


「そなたが都を離れる手立てを用意した。明日にでも御笠を離れよ」


 高良彦が脇に立つと同時に、大王が言った。


「――はい」


 唐突に下された命に、夕星は気の抜けた声で答えた。


「また夢にあれが現れたら、私に報せるよう。火は風を求め、風は火に吹き寄せる。そなたの魂があれと引き合う力は、私が思うより遥かに強かった」


 神妙に諭す大王の横で、高良彦は渋面を隠しもしなかった。


「風読を遠くへやるのは、気が進まぬ。だが、背に腹は代えられぬと大王が言うのでな」

「阿蘇津彦の力を知るのは、私と風読だけだ。そなたがどうこう言うことではない」


 静かに言った姉に、高良彦は苛立ちもあらわに片眉をあげてみせた。


 夕星を館に置くと決めたとき、高良彦は大王に反感を示したりしなかった。だが今は、露骨に不服そうだった。





 朝を迎える前に、夕星はまた鞠智彦に遭遇したようだった。


 ひどく魘され、飛び起きた。呼吸が落ち着くのを待ってから、夕星は彼を呼んだ。


「葉隠」


 は、と彼は答えた。


「宇土で阿蘇津彦を間近に見たか」

「いいえ」


 すぐに答えた。彼のことは船上から遠目にしか見えていなかった。


「夢で阿蘇津彦に見つかったとき、腕を掴まれた。――白露に触れられるときと似ている。あれは女だと思う」


 有り得ない話ではない。確かに阿蘇津彦は女と言われても不思議でないほど華奢で、声も男にしては高かった。


「そうかもしれません」


 葉隠が言うと、夕星は目を伏せて自身の腕を見ながら呟いた。


「あれは男の腕ではない」


 きっと、鞠智彦に腕を掴まれたのだと思うと歯がゆかった。鞠智彦が、葉隠の力の及ばないところで夕星を害することに――苦しむ彼女に、何もしてやれない自分に。


 疲れも痛みも感じない葉隠でも、夢のなかで護ってやることはできない。


「葉隠」


 は、ともう一度返事をした。夕星の意を決したような面持ちを見て、続く言葉はなぜか想像がついてしまった。


「姿を見せて」


 昔捨てたはずの目で、葉隠は天を仰いだ。雲一つない夜空に、満月がかかっている。今なら確実に姿を現すことができたが、そうしなかった。


 心が揺らがないわけではない。夕星は助けを求めていた。鞠智彦が絡めとろうとしている心を、どうにかして保つために。


 一方で、これまで決して願いが叶わなかったことも、夕星は憶えているようだった。暫く待ったものの、やがて諦めたのか床に伏した。横たわった主の寝顔を確かめてから、葉隠は内心で嘆息した。


 彼は本来、月読の裔を護るはずだった。風読を護ることになるとは思っていなかったし、この頃ますますその方法はわからなくなっている。


 葉隠はあの夜、科戸で息絶えていたはずだった。護るべき主を亡くしたら、それも致しかたないと思っていた。身体を持たず生きることに飽いていたから。


 だが結局、否応なくながらえた。最初は、突如として自身と結びついた姫君を護るために、のちには変わってゆく主と自分への戸惑いに伴われて。


 夕星が姿を見せるよう頼む時はもちろん、以前はなかった打ち解けた態度をとる時――彼をからかったり、誰にも見せない悩みを見せる時、葉隠は未知の動揺に襲われた。


 その気持ちは思ってもない方向に彼を突き動かし、常にあるべき緊張をほどいてしまいそうだった。いつでも夕星のそばにいるのに――それだけで充分なはずなのに、彼女との隔たりをすべて取り除きたくなる。


 葉隠が言葉少なになると、夕星はいつも自然と口をつぐんだ。あまり話に付き合わせたら嫌われると考えているようだった。実際は葉隠が縮まっていく距離に戸惑い、やり取りを切り上げざるを得ないだけだった。


 どんな時であっても冷徹さを保つために、彼はその情動が何かを知らないままに抑え続けていた。


 だがあの玉杵名の夜、葉隠は胸に宿るものが何かを悟った。鞠智彦に斬りかかった時、冷静な考えは微塵も残っていなかった。夕星を愚弄した鞠智彦を討ちたかった――そして、動揺した夕星の心を引き戻したい一心で彼女を呼んだ。鞠智彦の獰猛さだけでなく、雄々しい美しさに目を奪われていた夕星を。


 朱鷺彦への一途な姿を思い出すより、鞠智彦に心揺さぶられている姿を見るほうが、なぜかずっと辛かった。たとえそれが大王の言ったとおり、火と風が相呼ぶ定めにあるからだとしても。


 夕星の中にある朱鷺彦の影が薄れ、その隙間を鞠智彦が侵していくことは耐えがたい。だが一方で、自分がそこへ分け入ることはとてもできない。


 葉隠は、武術で誰にも引けを取ったことがなかった。だから、務めに迷いも悩みも持たずに済むと思ってきた。実際、夕星の命が続くよう、できることはすべてしてきたと思う。


 しかし、夕星がひとつ美しくなるたび葉隠は、どこにもないはずの胸が、ひどく苦しかった。

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