七 夢
人気のない平野に、夕星はひとり立っていた。見渡す限りの茅はそよとも揺れない。
曇った空はどこまでも灰色で、月はない。遠い山並みにぐるりを囲まれた、すり鉢の底のような平原に、夕星はいた。
その原野の中ほどに、椀を伏せたようななめらかな小山があった。木の一本も生えていない姿が珍しく、夕星はそちらへ歩を進めた。
空は徐々に暗く濁っていく。なのに無風なのは解せなかった。足元の地は微かに鳴動している。あちこちを見渡したが、家も道もない。
考えながら歩くうち、山の近くまで来ていた。そうだ、と思い至って口を開く。
「葉隠」
きっと、独りで来たのではない。今の今まで忘れていたのが不思議だった。
葉隠は何も言わなかった。名前を呼べば、絶対に返事をするはずの彼が。
「葉隠」
彼がいない。たったひとり、人の住まない場所にいることに焦る。ここからどうやって、御笠に帰ればいい。辿る道すらないというのに。
狼狽したとき、誰かに右腕を掴まれた。以前、阿蘇津彦に捕まった夢が脳裏をよぎる。しかし、いま腕を掴んでいるのは阿蘇津彦の華奢な手ではない。
その腕を目で追った先に、充分すぎるほど見覚えのある顔があった。
水分の里や玉杵名で会ったときのように、夕星は彼から目を逸らすことができなかった。そして鞠智彦もまた、夕星の顔を気の済むまで見つめようとしていた。
かつて見たとおり、精悍で美しい顔立ちだった。黒く豊かな髪を束ねもせず両肩に流し、短甲をつけていない頑健な体躯をあらわにしている。声を出せず、動くこともできない夕星を、鞠智彦は掴んだ右手から自身へ引きよせた。
強い力に絡めとられると同時に、鞠智彦の掌が頬を包む。そんなはずはないのに、まるで生身の肌に触れられているかのような熱が伝わる。鼓動が早鐘のように打った。鞠智彦の腕が背中に回される。
ありえない。
そうなのだ。そんなはずはない。自分は熊襲の鞠智彦と居合わせるはずはない。あの戦から、御笠に還ったのだから。これは夢だと、ようやく悟った。
顔を上に向けられ、鞠智彦に引き寄せられたとき、彼の唇に荒々しい笑みが浮かぶのを見た。抗えない夕星に鞠智彦は、噛みつくような口づけをした。
夕星は目を覚ました。
首筋に汗が滲み、息は上がっていた。見開いた目に、先日から寝起きしている新しい寝所が映り、深い息を吐く。まだ空が白みはじめてもいない夜半だった。
このところ夢から醒めるたび、疲れがひどい。
目を覚ませば呪縛は終わるが、夢の間隔がしだいに短くなっているのが不気味だった。今では毎晩のように鞠智彦が現れ、疲弊しきっている。
寝所を出、高床の回廊のふちに腰掛けて茫としていると、ふと視野の端に明かりが目に入った。振りかえると、白露が灯心の入った小皿を手に立っている。油に浸された小さな火影が、気づかわしげな表情を照らしだした。
「お加減が悪いのですか」
最近、夕星が頻繁に夜風に当たりに出るのを、白露は心配していた。新しい寝所になってから、彼女はいつでも隣の房に控えているので、物音を聞くと起き出してしまう。
夕星は力なくかぶりを振った。
「悪い夢を見ただけだ」
「こないだもそうでしたでしょう。何か気になることでも?」
誰かに不安を吐露したいのは山々だが、こんな夢に悩まされているとは言えない。白露だけでなく、葉隠にも聞かれてしまう。
「何もない。大丈夫だ」
それだけ言って、彼女をさがらせた。ふたたび口を開いたのは、白露が姿を消してからだ。
「葉隠」
は、と短い声が答えた。夕星はようやく頬を緩めた。
「夢に其方がいなくて焦ったので、確かめたかった。夜中にすまない」
彼は静かに言った。
「私は眠ることはありません」
「そうか。初めて知ったよ」
夕星は笑みを浮かべた。葉隠の落ち着いた声が、泣きたくなるほど嬉しかった。めっきり涼しくなった風が顔を撫で、心を静めていくのを夕星は待った。
庭沿いの回廊を見慣れない采女がやって来るのが見えたのは、そろそろ閨に戻ろうかという時だった。彼女はごく平坦な声で、巫女長が朝霧姫を呼んでいると伝えた。
行ってみると巫女長はいつもどおり、夕星を大王に引き合わせてすぐに立ち去った。館へ来て随分経つが、巫女長は大王への取次ぎ役以外、何をしているのかよくわからない。
大王の前に進み出て跪拝すると、すぐさま声がかかった。
「悪い夢を見るようだね」
驚いて御座にいる相手を見ると、初めて目にする心配そうな表情をしていた。何も返せず呆気に取られていると、大王が苦笑する。
「私が其方を慮るのが、それほど珍しいか」
「いえ――ご存じでいらしたとは、思いもしませんでした」
「ここのところ、夜半に妙な気配がしたのでね。其方の閨で」
夕星は唇を引き結んだ。大王はすべて知っている。おそらく、夕星自身よりも多くのことを。そしてそれは、思ったより深刻な事態なのかもしれない。こうしてわざわざ呼び出されるのだから。
「今其方を見て、もう少しことの次第がわかった。夢に熊襲の渠帥者が現れるのだね」
はい、と頷いた夕星の右腕に、大王の視線が走った。
「宇土で矢傷を受けたのか」
「はい。すでに癒えておりますが」
夕星は右腕の袖をまくった。鏃で肌が裂けたものの傷は浅く、痕もふさがっていた。
大王の目が、考え込むように細められた。
「血には魂が宿る。阿蘇津彦は傷口から、まじないを入りこませたのだ。鏃にあの者の血が塗られていたのだろう」
宇土での出来事を夕星は思い返した。あの時矢は、確かに阿蘇津彦の船から飛んできた。
「最初に夢に現れたのが阿蘇津彦だったのは、そのためでしょうか」
「そうだろうね。阿蘇津彦が呪いを刻み、其方の居所を探り当てた。そして鞠智彦を夢に送り込んだ」
「――そうでしたか」
大王がどこまで夢の中を暴くのか、夕星は気もそぞろだった。葉隠に聞かれたくなかったのだ――自分がどれほど無力で、みじめに蹂躙されるところだったか。
強張った顔から、大王が何を読み取ったかは定かでない。いずれにしろ、彼女はそれ以上夢の中身に触れなかった。代わりに言った。
「其方はまだ、鞠智彦や阿蘇津彦に囚われてはいない。魂が捕らえられる前に夢から目覚め、逃げおおせているからだ――わかるね」
「はい」
大王は、御座に置かれていた灯心の小皿を手に取ると、ふっと息を吹いて明かりを消した。あたりは闇に沈み、目が慣れると月影に朧な輪郭だけが戻ってきた。
「阿蘇津彦は其方の名を知らぬ。だが名を知られたり、夢で鞠智彦の腕に囚われたなら、其方は魂を奪われる」
命を奪うまじないだったと知り、夕星は慄然とした。
「誰も、朝霧姫の真の名を知らない。其方と、其方の護り以外は。ゆえに名を握られる心配はないが、いつ護りが呼んだ名を聞かれるとも限らない。火のそばでは名を呼ばれぬよう、気をつけなさい。でもそれだけでは、身を護ることは叶わない」
大王が明かりを吹き消した意味を悟りながら、夕星は頷いた。
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