六 帰還

 戦が終わると、長の館に投宿した。二日間、ほぼ飲まず食わず眠らずだった夕星は、矢傷に手当てを受けるあいだに寝入ってしまった。目覚めてみると、小さな部屋で清潔な薦に寝かされている。刻限は夜明けのようだ。


 夕星は横たわったまま葉隠を呼んだ。は、といくらか低い声が答える。


「戦が終わって、どのくらい経った?」

「丸一日です。再襲の報せは入っておりません」

「そうか」


 安堵の息をついた時、矢傷に痛みが走った。思わず眉を顰めると、葉隠が囁いた。


「まだ東雲しののめです。今しばらくお休みなされませ」


 珍しく気遣ってくれたのが嬉しくて、夕星は口の端をあげて笑んだ。


「ずいぶん優しいな」


 からかうと拗ねてしまったのか、彼は何も言わなくなった。素っ気なくされた夕星の方こそ拗ねたい気分だったが、大事なことだけは言っておこうと口を開いた。


「玉杵名でも宇土でも、其方がいてくれて幸いだった。ありがとう」


 葉隠の返答を確かめる間もなく、夕星はふたたび眠りに落ちた。





 日が昇ってから目を覚ますと、玉杵名から海を下って来た高良彦が到着していた。鳥船から顛末を聞いたという彼は、夕星を見ると満足げに笑んだ。


「よくやったな。智舗を守り切った」


 その一言で、戦が本当に終わったのだという実感が込み上げて、夕星は奇妙に胸が熱くなった。ようやく本当に、流転の末に住み着いた智舗で役目を見つけた気がする。


 幾日かを経て都に帰りつくと、たくさんの物見高い人々が待ち構えていた。群衆の好奇の視線を浴びつつ、高良彦はことさらにゆっくりと馬を進めた。余裕ある凱旋ぶりを見せつけたいのが、後ろ姿からもありありと伝わってくる。


 馬首を並べていた鳥船に、夕星は尋ねた。


「戦から帰ると、いつもこうなのか? 水分みくまりの里から帰ったときと、ずいぶん様子が違う」


 当時も見物人はいた。でも数は少なかったし、今回は彼らの目線に昂りがあるようだ。


「以前、熊襲との戦から帰ったときは随分様子が違いました。水脈みお読みの姫君を失って、意気消沈していましたから」

「水脈読み?」


 耳慣れない言葉を訊き返すと、鳥船は頷いた。


「里長の娘の罔象みつは姫は、地の下に走る水脈が読めたのです」


 何かが脳裏で、記憶の戸を叩いた。


 水脈が消える――。


 像を結びかけた小さな子どもの声はしかし、鳥船の言葉にかき消されてしまった。


「今回は大軍を無事追い返したのと、風読の姫の活躍が知れ渡ったのでしょうね」


 言われてみれば、妙に人の視線を感じる。我知らず首をすくめるようにすると、鳥船が微笑して言った。


「どうか顔をお上げになってください。貴女様は、勝った国の姫君なのですから」


 言い切った鳥船の面持ちは晴れやかだった。その目はきっと、夕星の顔によぎった影には気付かなかっただろう。


 彼らは、戦で勝つこととは何かを知っている。熊襲との戦で智鋪の礎が揺らぐことはないとわかっている。背後には、日向大王がいるのだから。


 だが自分は、国も民も失った――そしてそれは、智鋪でいくら勝ち戦に恵まれようと、決して取り戻せない。果たして自分は、ほんとうの意味で彼らと融合することがあるだろうか。


 葉隠に聞いてみたかったけれど、その問いはついぞ夕星の口を開かなかった。




 大王の館で、白露の熱烈な歓迎を受けた。湯殿に放り込まれて全身を洗われ、戦場で着ていたより何倍か重い衣を着せられたのち、巫女長の――もとい大王のもとへ向かった。


 さっぱりと着替えた高良彦とともに、大王は待っていた。夕星が跪伏礼を終えて面をあげるなり、彼女は穏やかに笑んだ。


「こたびの武勲見事であった。玉杵名で雨を招いただけでなく、宇土では風を呼んで軻遇突智の息子の火を消したそうだな」

「風を呼んだ、は言い過ぎだ」


 高良彦が横から口を挟んだ。細かいことを言わない彼が言葉尻を捉えるのは珍しかった。


「雨も風も、折良くやってきたのは幸いでした」


 夕星が言うと、大王は何か言いたげに目を細めた。


「へりくだることはない。――鞠智彦の兄は巫覡だったようだね」

「はい。女のように華奢な体で、両手と目の周りに入れ墨がありました。まやかしの炎は風で消えましたが、どう操っていたのかはわからないままです」

「そうか。私は今まで、阿蘇津彦が見えたことはない。熊襲国のまじないでは、先見や遠見に映らぬようにすることができるのかもしれぬ」


 日向大王は考え込む様子だった。たびたび戦場に現れる鞠智彦はある意味見知った相手だったが、阿蘇津彦については多くが謎のままだ。


「其方や鳥船が阿蘇津彦を見たのは、宇土の船上だけなのだね」

「はい」


 夕星はうなずいた。大王に嘘をつくなど、智舗に来たばかりの頃には考えられなかったが。


 ゆうべ夢で夕星は、中心が大きく落ちくぼんだ山の頂にいた。窪みの縁に立ってあたりを見渡すと、北に見覚えのある土地があった。水分みくまりの里だ。


 熊襲の都をいただく、阿蘇の山にいるとそれでわかった。


 夜の底には、何も見えない。民草が住む集落が点在しているのか、鞠智彦たちが住まう広大な館が広がっているのか。いずれにしろ、夕星がいるべきところではない。


 帰らなければ、と思った。風に乗れば御笠に帰れると、なぜか知っていた。


 しかし、何者かが右腕を掴んだ。華奢な手は見覚えのある刺青に彩られており、込められた力は思いのほか強い。はっと手の主を見た夕星の前で、相手は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。


「見つけた」

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