五 阿蘇津彦
「皆、あの火が何かわかって恐れているのですか」
夕星が先ほどの若者に訊くと、彼はかぶりを振った。
「正体がわからないのです。だからあの火は皆に恐れられております。あれが見えた日は誰も漁に出ず、家で過ごすのです」
眉を顰めた夕星の前で、彼は続けた。
「昔から、火の国熊襲の物の怪だと噂されていました。まさか本当にそうだったとは」
「大軍が火をかかげているのではないのか」
鳥船の問いに、若者は歯切れ悪く答えた。
「わかりません――でも、大軍がいるはずのない日にも、あの火は広がるのです」
阿蘇津彦は、収まらぬどよめきを楽しそうに眺めている。
「我らは火の神の子だ。熊襲は火を恐れぬ」
意気揚々と言い放った阿蘇津彦は、智鋪の陣を端から端まで眺め回した。
「逃げるなら今のうちだ、宇土の者ども。
はったりだった。夕星も、日向大王ですら神々の声を聞くことはない。だが皆、それを知らない。
すでに何隻かの船は汀へ後退し、櫂が水に触れる音が響いていた。鳥船はすぐにでもそれを止めたかっただろうが、彼らを威圧すれば更なる混乱を招きかねない。
数でも士気でも劣るようでは、打つ手がない。風は相変わらずそよとも吹かない――
あらためて海上の風に神経を巡らせたとき、しかし、ある疑いが頭をもたげた。
船腹から身を乗り出し、得体の知れない火が広がるあたりに目を凝らす。火影は遠く、持ち手たちの姿は見えない。
葉隠が静かに尋ねた。
「どうされました」
「火のある場所の風が、火の熱さを持っていない」
感じたままを口にすると、葉隠は戸惑ったのか黙した。夕星も、自分で言っていながらことの次第を確かめようがない――火の周囲を見ることができない限り。
「対岸の様子を見てこられるか」
小さく尋ねると、抑えた声が返ってくる。
「御意」
葉隠が離れた。顔を上げた夕星は、天上の月に目を止めた。衣ごしに握りしめた短剣の柄で、勾玉が脈動したように思った。
月を覆っていた雲は、いつの間にか吹き始めた風に押し流されていた。闇に十六夜(いざよい)の月がさえざえと澄み渡っている。勾玉と、呼び合うようにして。
どくり、と心の臓が衝き動かされたのは、そのときだった。
内海を吹く風すべてが、身のうちに宿ったように感じる。潟のどの風も鮮明に、手に取るように造作がわかる。死んだように動かない、風のひと吹きまで。
目に見えるもの、耳に聞こえるものが、一気に遠のいた。暫しなすすべもなく、身内に荒れ狂う風に身を委ねた。我に返ったのは葉隠の声がしたからだ。
「火は見えているほど多くありません――ひどくまばらです。なぜここでは海を覆うように見えるのか、わかりませんが」
無意識に止めていた息を、大きく吐いた。ただならぬ様子に気づいたのか、葉隠が気づかわしげに呼ぶ。
「夕星様」
短剣の柄に結び付けられた勾玉を握りしめながら、夕星は頷いた。
「あいわかった」
じりじりと間合いを詰める熊襲の船団を前に、宇土の船は矢も放てず後退していた。妖しい
そのなかで先陣を切るべく、鳥船が弓を構えた。皆彼を、固唾を吞んで見守っている。やめろ、と恐怖に囚われた声がいくつか上がった。
夕星はやにわに立ちあがると言った。
「待て」
弓弦を引きかけた手を、鳥船が止める。わずかに口の端を歪めた。
阿蘇津彦も夕星に気づき、珍しいものでも見るように目を眇めている。
「朝霧姫」
鳥船の制止を顧みず、船首へ進み出た。暗い海を越え、阿蘇津彦に呼びかける。
「あれが真の火だとの証はどこにある」
阿蘇津彦は鬱陶しそうな顔で答えた。
「見れば明らかだろう。智舗の武人の伽の相手風情が、何を言っている」
後半の挑発は耳に入らなかった。胸の拍動は、まるで早鐘のように打っている。夕星は続けた。
「火は風を求める」
声は両翼の兵たちにも届いたようだ。後退していた者たちが、櫂を止める音がした。
「真の炎かどうかは風が試すだろう」
まもなく智鋪軍の背後から、生ぬるい風が内海に吹きつけた。
圧しあい淀んでいた熱と冷気が、吹きおろしてきた風に歪みを解放されていった。奇妙なまだらになっていた熱気が掻き混ぜられ、均されてゆく。
耳元の風を聞きながら、夕星は胸にしたたか打ち続ける鼓動が落ち着いていくのを感じた。
歪みが消えるとともに、熊襲軍の背後に広がっていた火も姿を消した。隣に立つ鳥船が息を呑む。水平線を覆うほどに広く燃えていた篝火は、今は遠くにいくつか点々と見えるのみだ。少なくともそれは、多数の軍勢がかかげている数ではない。
一面の火は、何らかの目くらましだったのだ。
先ほどとは別の驚きをもって、智舗の兵たちは炎のあった場所を――そして夕星を眺めた。おそれやどよめきは消え、希望と昂りに変わり始めている。
「火の国の炎はまやかしであったな」
背後を振り返り、火炎の消失を目にした阿蘇津彦に、夕星は言った。ふたたびこちらを向いた彼の目には、冷ややかな怒りがこもっていた。
「お前、何をした」
夕星は淡々と告げた。
「そなたの目くらましを暴いた」
熊襲の陣は死んだように静まりかえっている。それだけでなく、阿蘇津彦のまじないが呆気なく破られたことに動揺していた。
鳥船がよく通る声で告げた。
「玉杵名の戦いも制した智舗の姫君に、まやかしは通じぬぞ。潔く生身の兵だけで戦うがいい」
大きく引きしぼった弓を、彼は放った。鋭い音を立てて闇を裂いた矢が、阿蘇津彦の脇の篝火を弾き飛ばす。月影のもとに火の粉が舞い、松明を支える台が崩れ落ちた。
智鋪の陣から鬨の声があがると同時に、大量の矢が射られ始めた。阿蘇津彦の船から飛んできた一矢が右腕を掠め、船尾へさがらされるまで、夕星は茫然と敵陣を眺めていた。
鳥船が檄を飛ばす声は、静かな希望に満ちていた。勢いづいた宇土の兵は、大きく前進している。一方まじないを見破られて気落ちしたのか、熊襲側は驚くほど早く筑紫洲へと押し戻されていった。
のちの世でこの火が、誰も正体を知らない火、すなわち
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