四 宇土洲

 船べりで波に意識を凝らしながら、夕星は声をひそめて呼んだ。


「葉隠」


 は、と短い声がした。鳥船は宇土の男たちと話しこんでおり、こちらを見ていない。


「ここは月の力が強い。潮の満ち引きが激しく、強い流れが船を運んでいる」


 仕組みは穴戸関と同じだ。入り組んだ地形の内海の水が月に引かれると、外海から流れ込む潮の量が足りずに力が集積する。たまったひずみが、強い潮の流れを生み出す。


「科戸にいたころ、潮を読むことなどできなかった。力が具わったのは、勾玉を受けとった日からだと思う」


 潮読みの力は月読の長にだけ与えられる。月読の長と夕星との共通点は、神宝を受け継いだことだけだ。月下で輝くあの勾玉に、きっと何らかの力があるのではないか。

 葉隠が静かに同意した。


「そう思います。長は海に供物を捧げるとき、かならず神宝を携えていましたから」


 そうだ。潮読みを皆が目にする場所では必ず、長の手に短剣と勾玉があった。


「奇妙なことだ。風読が神宝を手にしてもながらえたどころか、力を与えられるなんて」


 勾玉は風読の娘が月読の若者にねだり、神の怒りに触れた神宝だ。本来、夕星が手にした瞬間に命を絶たれてもおかしくはない。

 葉隠が躊躇いながらも言った。


「呪いはすでに解けているのやもしれません」


 確証はないものの、夕星も葉隠と同じ見立てをしていた。ただ、風読へ罰を下したのは、人の道理が通じる存在ではない。


「其方の言う通りかもしれないが、望みは持たずにいよう。呪いが解けていたとして、確かめるすべはない」

「はい」

「たとえ解けていたとしても、智鋪の人々に知られたくないことだしな。――とりわけ、高良彦殿には」


 今のところ高良彦は、子を産めば死んでしまう夕星を長く生かそうと考えているらしい。何の縁談も持ってこなかった。だが呪いがないと知られたら、どんな相手と娶せられるかわかったものではない。


 夕星は自身を包むように、両腕を強く抱いた。


 誰の妻にもなりたくない。


 朱鷺彦以外を伴侶とすることは考えられない。その可能性と向き合えば、夕星は自身の中に最も許したくないものを見つけてしまう。昨夜、葉隠に名を呼ばれたときに感じた激しい安堵が、その蓋を開けようとしていた。


 これほど胸を深く突き動かす情動に、心当たりはひとつしかない。


 海風が微かに吹いていた。船腹に寄せる漣の音が、絶え間なく響いている。





 日が傾き始める頃、宇土の浜に着いた。


 ここも熊襲に狙われたことは今までなかった。里人たちは一様に不安そうで、朝方結集し始めた熊襲軍が、いまに至るまで撃って出てこない不気味さも恐れに拍車をかけていた。船上に掲げられた松明の数を見るに、こちらが劣勢だった。


 日没後に熊襲の兵たちは、無数に並べられた船を汀から押し出し始めた。自身も船に乗り込みながら、夕星は鳥船に尋ねた。


「熊襲は玉杵名にも相当な兵員を出していた。宇土にも人を動員できるほど余裕があるのか?」

「それが解せないのです。これほど多く熊襲が兵を動かしたことは、今までなかった。一度に二つの里を襲われるのも初めてのこと」


 夕星は眉を顰めた。海の湿気と暑さに滲んだ汗が、目尻を流れる。

 海の向こうで、熊襲軍は筑紫洲を背に船を並べている。浜から漕ぎだすと、船上に点々と灯る明かりが徐々に近づいてきた。


 その火を眺めるうち夕星は、二つの洲に挟まれた海の奇妙な歪みに気づいた。


 海上にこもった熱気と、舞い降りようとする夜の冷たさが混じり合って、妙な緊張が生まれている。冷めやらない蒸し暑さが、黄昏の冷気を押し返していた。


「宇土の夜は、いつもこのような天気なのか」


 すぐそばにいた里の若者に、夕星は尋ねた。相手は怪訝そうにする。


「このような、とは? 普段と変わりませんが」

「熱と冷たい風とが、ひとところに淀んでいる」

「この海は洲々しまじまに囲まれておりますので、風は淀みます」


 相手は夕星の言った意味を取りかねていた。鳥船も訝しげな顔をする。


「何か、おかしなことでも」

「風の気配が奇妙なのだ。今までこんな場所を見たことがない」


 海を見下ろす空は薄雲に覆われていた。微かに明るい雲居が、背後の月の存在をほのめかしている。


 大王は、熊襲を退けるためには風を読まねばならないと言った。それは玉杵名だけでなく、宇土も指していただろうか。だが不気味に淀むこの風を、どう読み解いたらいい。


 海面に明滅する篝火を見ながら、焦りを募らせていた時だった。


 不意に、眼前の闇から鬨の声が響いた。全員が固唾を呑んで敵陣を見つめる中、ひときわ大きな松明を掲げた船が、ことさらにゆっくりと進み出てきた。


 船首近くに立つのは、女のように華奢な男だ。短甲と兜を着けているが、短剣を佩いただけで剣や弓は持っていない。代わりに弓を構えた男を脇に従えている。


 彼の両手の甲には刺青が見慣れない模様を散らし、顔にも双眸を黒く縁取る色が差されていた。逞しくはないが堂々たる立ち姿が、どこかあでやかだ。面に浮かんだ笑みは鋭く、子どものように無邪気な残酷さが漂っていた。


 不思議な見目と妖しく不敵な笑みに、夕星は彼が巫者だと直感した。只人ならざる鋭い眼光は、玉杵名で見た鞠智彦に通じるものがある。もうひとりの渠帥者いさお阿蘇津彦は、ここにいたのだ。


 鳥船が驚いて口を開いた。


「初めて見た。あれが――」


 彼の言わんとすることはよくわかった。武骨で荒々しい鞠智彦と比べて、阿蘇津彦はおよそ戦場に出てくる人物には見えなかった。


 智鋪軍の動転を見てとったのか、阿蘇津彦は満足そうに笑った。


「高良彦はいないようだな。玉杵名にかかりきりになって、間に合わせの者ばかりが集まったと見える」

「敗走した其方の弟を追っているからだ」


 鳥船が淀みなく返した。阿蘇津彦は気にした様子もなく再び笑う。


「どうでも良いことだ。その程度の兵員で、お前たちに打つ手はない」

 頭数で劣るうえ、夜の海上で阿蘇津彦の妖しい笑みは兎角不気味だった。戦に慣れていない宇土の者たちの恐れが、夕星たちにも伝わってくる。


 おもむろに阿蘇津彦が、刺青の入った両手を虚空に掲げた。何事かと眉を顰めるより早く、彼が従える船団のずっと後方で、無数の篝火が瞬く間に両翼に広がった。対岸の汀である。誰も彼もが息を呑んだ。


 すべてが兵の持つ松明だとしたら、到底太刀打ちできない人数だ。もし松明でないとしたら――


「火が出た!」


 近くの船から狼狽えた声が上がった。宇土の軍勢にただならぬどよめきが広がり、それは恐怖を伴っている。射手も水主かこも、浜へ引き返しかねないほど動揺していた。


 鳥船は努めて平静を保っていたが、顔は強張っていた。智鋪軍の士気が根本から揺らいでいる。

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