三 葉隠

 彼に振りおろされた鞠智彦の剣は、空を切った。刃を受け止めようとした葉隠の剣も、握る手を失って地に落ちる。


「いったい――」


 固唾を呑んで勝負を見守っていた鞠智彦の手勢が、絶句した。ただひとり、闇のなかで身体を奪われた葉隠だけが歯噛みして天を仰いでいた。


 月明かりのもとでなければ、彼は姿を現すことができない。


 人の姿で現れることは、月代のもとでのみ許されることだった。そうでなければ獣の姿を借りてしか、葉隠は身体を持つことができない。


「どこへ消えた」


 驚きに見開かれた鞠智彦の目に、もはや月読の若者は映らなかった。相手をねめつける葉隠の胸には、一つの怒りだけが渦巻いていた。


 夕星を嘲った熊襲の渠帥者いさおを、この手で討ちたかったのに。


 月影は雲間にさやいでは消えた。両陣の松明と熊襲軍の放つ火矢だけが、討ち合う人々を照らしている。


 智鋪の櫓に、高くひとつの松明が掲げられた。夜目の利く葉隠には、松明を掲げた衛士と、その脇の夕星が見えた。高良彦と示し合わせていた合図を出したのだ。


 高良彦もまた振りかえって櫓を仰ぎ見、ひときわ大きな鬨の声を上げた。


 それを聞いた智鋪の兵たちは、鳥船を筆頭にじりじりと自陣へ後退し始めた。時をおかずして、大粒の雨が降り始める。


 智鋪がにわかに弱腰になったことに勢いづき、熊襲軍は前進した。大半の熊襲の兵が斜面に引きつけられたとき、高良彦がもう一度大声で合図を出した。


 もともと湿地の多い玉杵名の地で、泥土は雨を含んで滑りやすくなっている。その斜面を遮二無二登っていた熊襲の兵衛たちは、智鋪の仕掛けた罠に気づいていなかった。


 三度目の合図を出したのは、鳥船だった。彼の声をきっかけに、人の頭や身体ほどもある岩が、次々に斜面へと投じられた。雨で滑りやすくなった地表を岩が転がり落ち、敵兵を薙ぎ払っていく。斜面には呻きや悲鳴が、丘の砦には歓声が響いた。


 葉隠が櫓に戻ったとき、夕星は神妙な面持ちで戦を見守っていた。


 彼は安堵の息をついた。夕星の儚い目を見た途端、あまりに長く主と離れてしまったことに気づいたからだった。





 眼下の闇で、智鋪軍が優勢に湧く声が聞こえた。作戦は首尾よく行ったようだ。


 鞠智彦がいる平原は、暗く遠い。それでも収まらない胸騒ぎにため息をついたとき、葉隠が戻ってきていることに気づいた。途端に温かな安堵が胸を満たす。


「帰ったか。待っていたぞ」


 不在を気付かれていたと知ってか、葉隠が返答に詰まった。夕星はふと笑みを漏らした。


 両軍が入り乱れはじめて間もなく、葉隠の気配が消えた。いままで決して起こらなかったことに、夕星はひどく動揺した――そして、彼がいないだけでひどく心細くなる自分に驚いた。ときどき無性に彼の声が聞きたくなることはあっても、それは朱鷺彦を懐かしむ気持ちのせいと思っていたから。


 それほど長くは経たないうちに、彼は戻った。なのに、これほど心を動かされるとは思わなかった。いつの間にか葉隠が、切っても切り離せない存在になっていたと知る。どうやら自分は、記憶の名残りではなく、葉隠自身を必要としているらしい。


「夕星様」


 名を呼ばれたのは久しぶりだった。智鋪の者からは朝霧と呼ばれるから。自分の名は昔通りだけれど、誰もその名を知らない――彼を除いては。


 何かが胸を締めつけた。でもその感情に、夕星はまだ名前をつけたくなかった。


「戻ってくれてよかった。どこにいた?」

「情勢を見てまいりました。智鋪が優勢で、間もなく決着がつくかと」

「そうか。ありがとう」


 不意に胸から湧き出た言葉が口を突いた。


「今日まで生きられたのは其方のおかげだ」


 見上げた空には星も月もなかった。


「月読の神が、私に生きることを許すかはわからない。この先私が、何者も産まなかったとしても」


 風は絶え、天上からは雨が注ぐばかりだ。火明かりだけが夜の片隅を照らしだしている。


「でもそれで其方の命が続くのなら、あといくらかでも長らえたいものだな」


 自分の命が消える時、葉隠の命も潰える。ならばこの声をまた聞くために、生きていよう。いつの間にか心に根を下ろしていた決意に、夕星は初めてはっきりと気づいた。


 だが、ここまで護り続けてくれた葉隠への想いに向き合う勇気はまだなかった。





 敗走した熊襲軍は、ついに戻らなかった。


 東の空が白みはじめると、高良彦は玉杵名の兵衛と自らの手勢と残党狩りに出た。


 長の館に残っていた夕星は、朝方鳥船に呼ばれた。行ってみると、海路ここまでやって来たという男たちが不安な顔で座していた。鳥船が淡々と語る。


宇土洲うとのしまから遣いが参りました。筑紫潟ちくしのかたを夜通し渡り、先ほど着いたと」


 筑紫潟は玉杵名の西に広がる内海で、南に下れば宇土洲がある。宇土と筑紫洲本土との間の海は狭く浅いが、対岸は熊襲国であるため渡る者はない。報せが海路で来たのもそのためだった。


「熊襲のおかに、宇土を狙って多くの兵員が集まっているそうです。そこで助けを求めにやって来たと」


 夕星は慄然と頷いた。大王の告げた通りのことが起ころうとしている。


「すぐに発とう」


 夕星たちは馬で浜へ駆けつけ、玉杵名の長が用立てた船に乗り込んだ。


 玉杵名を発って間もなく、宇土からなぜこれほど早く遣いが来たか明らかになった。今船を南へと運んでいる潮が、早朝には北へ流れていたのだ。


 誰に聞いたわけでもなく、夕星には手に取るように潮の流れがわかった。


 流れが再び北へ向くのは夕刻と思われた。日没前に宇土に着くまで、潮が船を運び続けてくれるだろう。

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