二 鞠智彦

 会うのは二度目だと、彼のほうも悟っていただろうか。夕星が息を詰めたその時、鞠智彦は獰猛な笑みを浮かべ猛々しく呼ばわった。


「高良彦!」


 鋭い声が、狙い通り高良彦の目を引き寄せた。


「随分若い女にとぎをさせているものだな! お前を討った暁には、そやつを俺のねやに迎えてやらぬこともないぞ」


 声は宵闇の中をよく通った。緊張に圧し包まれた両軍は息をひそめ、次に静寂を破る言葉を待った。


 超然と鞠智彦を見おろした高良彦は、挑発に乗る様子もなく言い放った。


「その時は来ぬ」


 なぜか強い不安が夕星を襲った。その時は、本当に来ないだろうか。鞠智彦が夕星に手を触れることはないと言い切れるだろうか。


 恬淡とした高良彦と、燃え盛る炎のような鞠智彦、戦の結果はどちらに転んでも不思議はない――だが夕星と、鞠智彦が向き合ったら。その時は風が炎に吹き寄せるように、炎が風を求めるように、自分は彼の手に結いからげられるに違いない。武人として鞠智彦が見せた気迫以上の何かが、そう思わせた。


 最初に鏑矢が飛んだのが、どちらの陣だったかはわからない。あたりは途端に鬨の声に満ち、智鋪と熊襲の兵衛は見る間にぶつかり始めた。智鋪軍で先頭を切ったのは右翼にいた鳥船で、無数の騎馬がそれに続いた。


 緩く頬を撫でるだけだった風が、徐々に強くなっていることに気づいた者はなかった。





 両軍が入り乱れ始めて間もなく、高良彦は傍らの者に気づいた。こんな若者がいたか、とはたと見入る。只人ではなかった。


 大柄ではないがしなやかな手足からは、鍛錬のあとが窺えた。粗末といえるほど簡素な衣を纏いながら、束ねた黒髪やまばゆいほどに白い肌、整った目元には強い気品が漂う。


 加えて、燃え立つような怒りがその存在を際立たせていた。彼は鞠智彦を射るような目で睨みつけている。見知らぬ彼が憤る理由を考えた時、高良彦は相手の正体に気づいた。


「朝霧の護りだな」


 答えはない。呼びかけようにも名を知らなかった。いずれにしろ、聞こえていないかもしれない。主を挑発の道具にされた若者は、あらん限りの怒りを纏っている。


 高良彦は静かに口を開いた。


「行ってよい」


 返答はなかったが、相手は話を聞いていると感じた。


「あの櫓に矢は届かぬ。朝霧はここにいれば無事だ。――援護する」


 高良彦が弓に矢をつがえると、若者はその場から掻き消えた。次の刹那、丘を下ったところにその姿が現れる。戦線の誰より熊襲の陣近くに現れた彼は、早くもこと切れた兵衛の剣を手にしていた。


 その剣を凄まじい勢いで振るうと、彼は脇に突っ込んできた騎馬の脚を薙ぎ払った。前脚を大きく上げた馬から兵は地上へと振り落とされ、痛みに悶絶する。騎手を失い、混乱する馬に若者が飛び乗ると、悲痛な嘶きが響いた。


 不安も露わな馬を強引に操り、彼は鞠智彦の前に乗り付けた。あまりのなりふり構わなさに呆れた高良彦だったが、その派手な振る舞いは同時に鞠智彦の興味を引いた。吹き始めた宵風に黒髪を靡かせた鞠智彦は、手綱を操ると月読の若者へ向き直った。高良彦もまた馬を駆り、丘陵を降りた。


 若者が剣の切っ先を鞠智彦に突きつけた。その彼を狙って火矢を番えた熊襲の兵衛を、高良彦はすぐさま射た。矢は胸部に命中し、兵衛は血を吐いて倒れた。


 かたわらの手勢が尋ねた。


「あの、鎧もなしに剣を構えている者は――」

「何者であろうな」


 次の矢を素早く番えながら、高良彦はそ知らぬふりをした。


「あれを射ようとする者がいたら止めろ。鞠智彦との一戦を邪魔させてやるな」


 若者の肌は遠目に見ても、月のように白かった。





「只人ではないな」


 鞠智彦が抑えた声で言った。


 葉隠の挑発を受け、彼は戦意に燃えた目でこちらを見据えた。鎧もない若者が強引に馬を乗り付けたのは目立ったし、癇に障ったようだ。


「何者だ」


 葉隠は答えなかった。ただ無言で鞠智彦をねめつけていた。


 どちらからともなく下馬した両名は、地上で向かい合った。しばし睨み合った末、葉隠が最初に足を踏み込んで斬り合いが始まった。


 怒りに我を忘れていた葉隠の身体には、ただ剣の手ごたえだけが確かだった。鞠智彦は兎角力が強く、剣のひと振りを受けるたび跳ね返すのに苦労した。俊敏さは葉隠が相手を凌駕していたが、勘が良い鞠智彦は次の動きを読み取り、万力で突き返してくる。しばらく絶え間ない応酬が続いた。


 天に棚引いていた雲が切れ、望月が完全に姿を現したときだった。葉隠は鞠智彦が右腕で掲げた剣を打った後、相手の左肩に斬撃を流した。


 短甲の隙間にのめり込んだ刃が、鞠智彦の肌を裂く。流れた鮮血を目にした彼が、何が起こったか理解するまでの一瞬に、葉隠は首に大きく斬りつけようとした。だが振りかぶる動作が大きくなったのが災いして、読み切られた一撃は鞠智彦に跳ね返された。――その力は、先ほどより弱い。


 切り傷をおしても鞠智彦に怯む様子はなく、葉隠も剣を収める気はなかった。ところが間もなく、鞠智彦の顔に驚愕が浮かんだ。何か、自らの身体の異常を察知したように。


 葉隠が斬りこめば打ち返してくることに変わりはない。しかしよく見れば左腕が動いていない。重そうに肩から垂れているだけだ。


 鞠智彦は明らかにやりにくそうだった。流れる血の量を見るに、太い血道を断たれたわけではない。第一それなら、とうに絶命しているはず。


「どうした」


 斬撃の合間に呟くと、鞠智彦は苛立ちに激しく顔を歪めた。


 彼を追い詰めつつあると、葉隠は確信した。折から吹き始めた風が、急くように雲を押し流したそのときも。しかしまばゆい満月が雲に覆われたとき、彼の姿は鞠智彦や、斬り合いを見守る者すべての眼前からかき消えてしまった。

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