第二章 熊襲

一 玉杵名

 熊襲の斥候の散発的な出現は、春じゅう続いた。初夏のある日、日向大王は高良彦と夕星を呼び出した。


「朝霧姫と玉杵名たまきなへ向かえ」


 突然の命に、高良彦は露骨に顔を顰めた。苛立ちを隠しもせずに大王に詰め寄る。


「どういうことだ。わかるように話せ」

「言ったとおりの意味だ」


 大王は御簾越しにも涼しい顔をして言った。


「この戦には朝霧姫の手が要る。玉杵名の戦の後も、風読は鳥船とりふねとともに南へ下れ」


 玉杵名は都から南西に下った先にある村で、南の境を熊襲と接する。だが高良彦は首を傾げた。


「玉杵名に斥候は来ていない。それに、鳥船を名指しとは珍しい」


 鳥船は高良彦の麾下で、智鋪で最も高位の武人のひとりだ。高良彦のどんな命も実行することができるうえ、温厚な人格のため兵衛たちからの信頼も篤かった。

 大王は高良彦を見据えると、厳然と告げた。


「其方が行けるのは玉杵名までだ。その先は鳥船が朝霧姫と往く」


 すべてを知りたがる高良彦に対し、大王は自らが知ることだけを断固として告げていた。細部は彼女自身にも窺い知れないが、必要な手は打たせねばならない。たとえ王弟が納得しかねることでも。


 高良彦はますます解せぬという顔をした。


「俺は玉杵名へ留まって、二手へ別れろと?」

「鞠智彦と阿蘇津彦あそつひこ、どちらも相手にするには、朝霧が風を読まねばならぬ」


 熊襲を率いるもう一人の渠帥者、すなわち鞠智彦の兄は阿蘇津彦と言う名だった。二人が並び立って国を治めているが、戦を率いるのは圧倒的に武術に秀でた鞠智彦だ。兄のほうは、智鋪の前に姿を現したことがないと聞いていた。


 高良彦はまだ腑に落ちない様子だった。


「これまでに鞠智彦以外が矢面に立ったことはなかった。なぜ阿蘇津彦が出てくる」

「これまで戦が上手く行かなかったからだろう」


 日向大王は冷然と言った。


「武人の鞠智彦は望月の夜、其方が相手をせよ」

「阿蘇津彦は武人ではないのか。何だというのだ」


 大王は見えないものを見ようとするように目を細め、眉根を寄せた。


「それがわからぬ」


 悩んだ様子に、高良彦も黙り込んだ。そして、苦虫を嚙み潰したような面持ちで、鳥船らと手勢を率いて南へ向かった。


 玉杵名で夕星たちは、目を白黒させた国長に迎えられた。長は安穏とした里に都の兵衛を置いて警戒にあたらせる必要がまったく呑みこめない様子だった。それでも高良彦が詰め寄った結果、最終的には従った。


 うだるような暑気に耐えながら、高良彦と鳥船は作業の指示を出した。新月から十日余り働き詰めとなった人工たちの不満顔を見れば、仕方なく動いているのは明白だった。


「皆、備えよと言われてもしっくりこないようだな」


 夕星が言うと、鳥船は頷いた。武人らしく体躯は頑健だが、声はあくまで穏やかだ。


「里人の気持ちもわかります。私も、大王の言うことでなければ未だに信じられません」

「私もだ」


 南を見ながら夕星は呟いた。二人がいる丘には水鳥の声が無数に響いている。河口付近のこの土地は水はけが悪く、ところどころ湿地が広がっていた。この特徴を利用して、高良彦と鳥船は熊襲を迎え撃つある方策を立てていた。


 大王と言えど、わからないことはある。それを訊かれる辛さが、夕星には想像できた。大八洲のどこにいつどんな風が吹くか、もし訊かれ続けたらと思うと溜息が出る――郷里を出てから、風を読める時と場は広がりつつあるとはいえ。


 読めて数日先だった天象が、今では七日先まで感じ取れる。科戸では里の風模様しかわからなかったが、智鋪では遥か遠くまで風が読めた。

 その夕星に、ある日高良彦が尋ねた。


「次の雨はいつだ」

「望月の夜です」


 夕星が答えると、高良彦は納得した様子で頷いた。


「姉上の言うとおり鞠智彦が現れれば、これ以上の機はないな」




 そのやり取りを聞いていたかのように、翌日熊襲の兵衛たちが姿を現した。


 長の館をいただく丘陵に集められた智鋪軍も、一斉に武器を取った。熊襲軍は丘の裾に陣取り、智鋪軍を見上げる格好になった。兵員の数は互いに五分か、熊襲がやや多かった。


 高良彦は夕星に、雨が降るときを知らせよと命じた。その時に合図を出すべく、夕星は物見櫓で衛士とともに、高良彦と鳥船が率いる兵衛たちを見おろしていた。


 熊襲を率いるのは、ひと際大きな体躯が目を引く鞠智彦だった。黒兜と、同じく黒の短甲が月明かりに照らし出されている。


 馬上で長い剣を佩いた鞠智彦は、全身から立ちのぼる戦意に加え、圧倒的な気迫を醸しだしていた。彼を初めて見る玉杵名の者たちは、明らかに気後れしている。


「雨はまだか」


 櫓のふもとにいた高良彦が、こちらを仰いで尋ねた。


「まだですが、雲は冷たくなっております。もう少し待てば」

「早くに頼むぞ。そのときには合図をしろ」

「私は風読です。風を招くことはできない」


 聞いているのかいないのか、高良彦は答えのないまま敵軍へ向き直った。


 つられて眼下を見やった夕星は、両翼の中心でこちらを見上げた鞠智彦と目が合った。彼が櫓を振りあおいだ刹那、兜に隠れていた顔が現れる。


 鞠智彦は、水分の里で見た若者その人だった。ただその視線は、凍てつくように冷酷だ。浅黒い肌が月影に浮かび上がり、美しく高ぶった面持ちから血の滾るさまが透けて見える。火軻遇突智神ひのかぐつちのかみの子と畏れられる理由を、その姿が告げていた。

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