十三 前兆

 出雲へ立てる遣いは、すぐに決まった。大王の縁戚の、和香彦なる青年だ。彼を出雲に海路向かわせ、杵築きつきの都にいる国主を訪ねさせるという。


 冬が明け、海風が和らぐと和香彦は智鋪を発った。しかし、春が深まる頃になっても沙汰はなかった。


 かわりに聞こえてきたのは、熊襲がふたたび戦に備えているという噂だった。国境に熊襲の兵が物見に来ることが増えていた。それは水分の里であったり、豊国とよのくにであったり、山鹿やまがであったりした。あちこちの里長が彼らの気配を感じとっては、御笠に早馬を寄こした。


 夕星はふと、葉隠に尋ねた。


「水分の里で見かけたのは、熊襲の渠帥者いさおの鞠智彦だろうか」

「そう思います」


 あの雄々しい武人が、里長の一家を皆殺しにした。強い殺意を秘めた、智鋪の宿敵。


 どこかそのことを不思議に感じた。あの夕の姿を見ただけでは、それほどまでに酷薄な姿はどうにも浮かんでこなかったから。


 あるいは、と思う。熊襲を率いる渠帥者は、二人いるという。鞠智彦の兄であるというもう一人の渠帥者が、冷厳な意図をもって里を攻めさせたのかもしれなかった。





 兄より弟の方が出来のいいのは良くあることだ、と皆が言った。


 彼は弓も剣も兄より秀でていて、馬の扱いも得手だった。久しぶりに抜きんでた武人が生まれた、と一族郎党が湧いた。


 どちらかを遠くに連れて行く機会があれば、父は弟を選んだ。彼は兄を可哀想に思ったが、何も出来なかった。物事を決めるのは父だったから。


 何年か経てばやんごとない娘を娶せられ、国の長になる。それまでは武術の修練に明け暮れる日々だったが、元々得意な上に練習すればするほど上手くなるので、彼は飽きることなく鍛錬を積んだ。


 どちらが神に選られたかは明らかだ、と父は言った。彼が十歳になる時に兄弟二人の定めを試すが、それにおいてはきっと彼が嗣に選られるだろう、と。


 予告通り父は、彼が十を迎える日の夜、二人を山奥の榊の木の下に連れて行った。ここで明朝、父が迎えに来るまで待っていよとのことだった。


 獣の足音すらしない夜の山で、月明かりだけを頼りに過ごした。森は深く、木陰は鼻先にかざした手も見えないほどの闇だった。


 決してこの場所を離れてはいけない、と父は言った。今宵に限っては里へ戻る道も、死者の国へくだる黄泉平坂よもつひらさかに通じてしまうという。実際、ここへ来るまでに見た坂道は、今まで見たどの夢よりも暗かった。あの道が黄泉に通じていても不思議はない。


 互いに喋ってはならなかったため、彼は兄を目の端にとらえつつも、一言も口を利かなかった。夜は長く、彼は退屈していた。木の根に背をあずけて座りこみ、しばらくすると知らないうちに眠りに落ちた。


 目覚めた時、夜はほの白く明けていた。あたりを見回すと父が、黄泉平坂ではなくなった道から登ってくるのが目に入る。まっすぐ樹下にやってきた父は、滾々と眠る兄のかたわらに立った。兄もまた、気づかないうちに眠りこんでいたらしい。


 ほどなくして、父の顔が強張っていることに彼は気づいた。驚愕し、兄の寝顔を言葉もなく眺めている。なぜか彼のほうをまったく見なかった。


 硬い面持ちのまま、父は兄を揺り起こした。目を覚ました兄は、はっと飛び起きた。


「父上」


 焦りながら目をこする兄に、父は声を掛けた。


「朝までよくぞ耐えたな。怖がりのお前には酷だったろう」


 兄は寝ぼけ眼であたりを見回した。何が起こったのか呑みこめていない彼は、きょとんとして父を見つめた。


「神は嗣を選び終えたのですか?」

「如何にも」


 父は神妙な顔で頷いた。山の恐ろしい気配はすっかり消え、鳥の囀りが聞こえている。


 なおも納得できないかのように、兄は眉を顰めた。


「選ばれたのはどちらですか?」


 木の幹に寄りかかるようにうずくまっていた兄の手を、父が引いて立ち上がらせた。


「そなただ」

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