十二 饗

「先見の力は、筑紫洲じゅう探しても、大王と台与様の二人にしかない。私たちは、ときどきその人の歩むであろう道が少し見えるだけ――まあ、他に力があっても公にはしないけれど」

「道が見えるとは? 姫神の力によるものですか?」


 訊いてばかりだと思いつつ、夕星は尋ねた。今度も多岐都はかぶりを振る。


高天原たかまがはらの剣から生まれた三人の姫神の裔が、身像に降り立った。以来、私たちの血筋には必ず三姉妹が生まれる。道が見えるのはその三人だけ。でもそれも、運が良ければその人に起こる物ごとが何となくわかるというくらいよ」

「私に起こる物ごとも、わかりますか」

「本当の名を知らないから、わからない。朝霧というのは仮の名でしょう」


 こともなげに多岐都が言ったので、夕星はどきりとした。その様子を見た多岐都が、安心させるように微笑する。


「あまりに何も見えないから、そうだろうと思った。――そんなに驚くことはないわ。私たちも、本当の名はほとんど誰にも明かしていないのだから」


 ああ、と夕星は納得して呟いた。


「やはり多岐都というのは、真の名ではないのですね」


 彼女も彼女の姉も、姫神自身と同じ名前だった。末裔とはいえ、神の名をそのまま人につけることは考えにくい。


「身像はそれなりに栄えた国だから、私たちを快く思わない者も多い。呪いに使われないよう、滅多なことでは名を明かさないの」


 倉の前で、不意にざわめきが大きくなった。白い羽飾りのついた面を纏った踊り手が、勇壮な踊りを披露しはじめている。


「身像を快く思わない者とは」

「筆頭は、高良彦たちかしらね」


 あまりにあけすけな答えに、夕星はぎょっとした。多岐都はかすかに肩をすくめた。


「私たちは、天照の御子たちから完全に信頼されることはない。身像が智鋪の一部となって、もう幾年いくとせも経っているのにね。だから誰かしらが、伊都へ体よく人質に取られるの」

「存じませんでした」


 一瞬間を置いてから、多岐都は言った。


「高良彦が教えるわけないわ。貴女のことをつぶさに話しつつも、評定には出さないような男だもの」


 多岐都は評定で何かを聞いたらしい。夕星は眉を顰めて尋ねた。


「高良彦殿が何と?」

「出雲は一分の容赦もなく科戸を滅ぼした、と。出雲が攻めてきたらどれほど深刻な事態になるか、熱く語っていたわ。だからこちらから遣いを出して、先手を打つべきだと」


 葉隠の警告が、ちらと頭を掠めた。


「今が機と大王が推したならと、誰も反対しなかった。遣いが誰になるかは、高良彦に近い者たちで決めるでしょう」


 胸の鼓動が跳ね上がった。智鋪がついに、出雲と接触する――それも、ひどく挑戦的な方法で。


 壇の一角には、別の演者が姿を現していた。猪の皮の面を被ったその男は、豊穣を妨げる災いの象徴だ。


「日向大王や高良彦は貴女の名を知っている?」


 ぽつりと尋ねた多岐都に、夕星はかぶりを振って答えた。


「いいえ」

「賢明だわ。私たちがもっとも名を隠したい相手も、その二人だから」


 不穏な囁きの意味を尋ねる前に、群衆から歓声が上がった。鳥装の舞い手が、猪の面を被った男を壇上から追い出したのだ。その姿を見つめながら、多岐都が静かに言った。


「それにしても、子を産めば生きられないという定めだけで酷なのに、国まで喪うなんて。貴女の来し方を聞いて、評定にいた誰もが言葉を失っていたわ」


 庭火が大きく爆ぜ、火の粉が舞った。朱い雨のような眺めに目を据えたまま、夕星はただ黙した。


 高良彦が、夕星の負った呪いを国じゅうの者に明かした。夕星にとって致命的な弱点である事実を、何の断りもなく。


 葉隠の警告が、しばし頭を離れなかった。





 巫女長が倉から姿を現すと同時に、夜は明け始めた。


 多岐都は早々に立ち去った。人々の一部は庭に留まって、思い思いの相手と語らっている。再び一人になった夕星は、ふと口を開いた。


「葉隠」


 答えはない。頓着せず言葉を継いだ。


「まだ暗い。誰も其方を怪しむ者はない。答えてくれてもいいのに」


 無性に彼の声が聞きたかった。高良彦の言動を知って、智鋪が本当に安心のできる場所なのか疑いたくなったせいでもあったし、同郷の者と連れ立って話す人々を見て、ふと寂しさを覚えたせいでもあった。筑紫洲に科戸の者がないことが、いつもより寂しかった。


 はたして葉隠は答えなかった。拗ねて唇を曲げかけたとき、背後から声がかかった。


「朝霧姫」


 振り返ると、佐知彦だった。


 彼から逃れるための文句を咄嗟に考えた。ところがその考えは、唐突に響いた音に叩き切られた。


 近くの軒にいた夜鷹が、喉も裂けよとばかりに鳴き出したのだった。周囲の人が一斉にこちらを振り返る。図らずも注目を浴びた佐知彦は、急に焦りだした。鳴き続ける夜鷹に感謝しながら、夕星は暗がりに身を潜めた。


 ほどなくして元どおり、人の声だけが闇にさんざめく。曙光も届かない一角に立ちながら、夕星はふと思いついたことを口にした。


「ねえ、葉隠」


 濃紺の西の空に、月の色がどこまでも白い。


「姿を見せて」


 やはり葉隠が何も言わないので、夕星は息をついた。


「そなたは身体を捨てたと言うが、姿を現せないわけではないだろう。ここへ来てくれればいいのに」


 あの夜夕星は、人買いと闘う彼の後ろ姿を見た。きっと、姿を現すことはできるはずなのだ。なぜか頑として応じてくれないけれど。

 他にも気づいたことがあった。


「この館に辿り着いた時、私の肩に止まった大鳥は其方だろう」


 相変わらずの沈黙だったが、驚いた気配が感じられた。


「穴戸関を渡ったとき、海にいた鯨も。其方は、獣の身体を借りることができるね」

「――はい」


 躊躇うように呟いた後、葉隠は付け加えるように言った。


「あの宵、鷹狩り用と思しき大鷹がいたので身体を借りました。上手くすれば、鷹の主に軒を借りることができるかと」


 夕星は思わず頬を緩ませた。


「やはりこの館に入れたのもそなたのおかげだな。あの鷹がいなければ、巫女長が来る前に追い返されていた」


 葉隠が自分の手柄を声高に言わない質なのはわかっていた。他にも夕星が気づかないところで、幾度も助けてくれたはずだ。


「出雲の追っ手の姿を捉えていたのも、鳥の身体を借りて空から見たからか?」

「――いつ気づかれたのです」


 驚いたような声に、夕星はしてやったりと笑みを浮かべた。


「今、そう思った。先ほどの夜鷹も其方か?」

「違います」


 葉隠は間髪入れずに答えた。これ以上ないほど冷徹な声だった。


「なんだ。助けてくれたと思ったのに」


 拗ねるように言ったものの、葉隠から言葉を引き出せたことが嬉しかった。胸をさいなんでいた寂しさは、いまやなりをひそめている。


 ざわめきの満ちる庭を、静かに辞した。東雲の天が深紅に染まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る