十一 多岐都

「お初にお目にかかります。級長戸辺しなとべの娘、風読の朝霧と申します」


 夕星が名乗ると、多岐都は優雅なしぐさで会釈をした。


「風の女神の姫が、いかな経緯で日向大王の館に?」


 高良彦が、お前が自分で言え、とこちらに目配せした。


「出雲国に郷里を追われ、穴戸関を越えて逃げのびてまいりました。智鋪に拾われたいまは、日向大王にお仕えしております」


 多岐都はほかの多くの使者と同じように目をみはった。


「それは大変なことでございましたね。――けれど今後は、誰にも脅かされることがありませんように」


 労わるように彼女が言ったとき、高良彦が視野の端で眉をひそめた。


「姫神の裔がおっしゃるなら、朝霧姫にも加護があろう。――饗の祭りの逗留を、どうぞ楽しまれよ」


 早々に会話を締めくくりにかかった彼に、多岐都は速やかに乗った。


「高良彦様、巫女長様、朝霧姫におかれましても」


 限りなく慇懃に礼をした多岐都は、ついに一言も喋らなかった祝とともに広間を辞した。


「いつものことだ」


 多岐都が去ったほうを見つめる夕星に、高良彦が言った。


「身像は、智鋪に降ったことをいまだ納得しかねているらしい」

「ならばなぜ、傘下に入ることを選んだのです?」

「智鋪が気にいらなくても、敵対はしたくなかったのだ。合一する時はただ平穏を保つことだけを望んでいても、安寧に慣れると誰もが不平を垂れる」


 彼の言わんとすることはわかった。ここ数年で智鋪に降った国々は、謁見で無難な祝辞を述べるだけだった。いっぽう智鋪となって久しい国ほど、普請の支援や貢納物の減免を陳情することが多かった。


「だが、評定で扱うような話は出てこなかった。出雲の話がゆるりとできるだろう」


 この日の昼からは、各国から集まった使節と評定が行われる予定だった。恭順を促す使者を出雲へ出す旨、高良彦から諮ることになっている。


 夕星からすればとんでもない話だった。大国出雲がおいそれとうべなうはずがない。だが大王は、いま遣いを送るべしと断言したらしい。高良彦も反対しなかった。あとは国長たちの了承を取りつければよい。


 科戸の姫を匿っていることは出雲に告げない、と高良彦は言った。夕星を仕えさせていることを知らせれば、いたずらに相手を刺激することになるからだ。


 ただし葉隠は、高良彦を信じる気になれないようだった。


「評定の経過は、あとで詳しく確かめるのがよろしいかと」


 ある夜ぽつりと呟いた彼の言葉に、夕星はうなずいた。


 各国の代表と謁見する横顔を見て、酸いも甘いもかみ分けた為政者としての高良彦の姿が立ち現れてきた。今は隠している夕星の存在も、智鋪の利となるならいつか出雲に明かすだろう――きっと。


「わかっているよ。ありがとう」


 葉隠は沈黙で答えた。不意に吹き寄せた風は、すでに冷たい冬の気配を含んでいた。





 翌朝、采女うねめたちは各地の使者が貢納したちから――この秋獲れた稲穂が主だった――で、日の神に捧げる御饌みけを調製しはじめた。祭儀の行われる庭には黒木の倉が築かれていた。夜には巫女長が倉でひと晩を過ごし、日の神とともに御饌を食する。祭りが神の饗と呼ばれる所以である。


 黄昏どきにひとり庭へ出た夕星は突然、声を掛けられた。


「朝霧姫」


 振り返ると、めかしこんだ若者が立っていた。丁寧に結われた下げみずらに赤い紐を編みこみ、真紅の瑪瑙めのう頸珠くびたまをつけている。


「――佐知彦殿」


 やっとのことで思いだした名を口にすると、彼はじろじろと夕星を眺め回した。


「おひとりですか」

「ええ。侍女が饗の支度に駆り出されたもので」


 白露が炊屋かしきやの手伝いに行っていたためそう答えると、彼はしめたとばかりに微笑んだ。


「それでは、少し館を出て歩きませんか。楽人や行商も来て賑わっておりますよ」


 庭はどことなく浮き足だった空気に包まれていた。ここでなければ会うことのない若者や少女たちがうきうきと会話に興じており、佐知彦もそれに乗じて夕星を誘ったに違いなかった。


「いえ、こちらへは舞を見に参りましたので」


 断ろうとしたものの、ずいとこちらに身を乗りだしながら佐知彦は言った。


「舞がはじまるまでに帰ればいいでしょう」


 言葉と裏腹に、彼に戻るつもりがないことは明らかだ。すでに倉の前には舞で使う面が置かれている。災いを祓う朱色に塗られ、白鳥しらとりの羽で縁どられた面だ。脇には御饌も並べられている。


「すぐに舞が始まります。いまここを離れるのは――」


 言いかけた時、佐知彦は焦れたように夕星の腕を引いた。同時に、貼りついたような笑みがにわかに野卑な迫力を帯びた。


「田舎娘が智鋪のおのこに相手にされるのだ。大人しく悦んでおけ」

「――何を」


 焦った夕星が身を引こうとしたとき、横合いからよく通る声がかかった。


「これはこれは、菟狭国の佐知彦殿ではありませんか」


 露骨な苛立ちが浮かんだ顔を、佐知彦は声のほうへ向けた。その目がすぐに、はっとした色を浮かべる。視線の先にいたのは、侍女を連れた多岐都姫だった。


「多岐都殿。お久しゅうございます」


 すぐに夕星の手を放し、佐知彦はしれっと挨拶した。多岐都は優雅に微笑んだ。


「先ほどすみれ姫と父君が、貴方様を探していらっしゃいました。これほど近くにいらしたとは知りませんでしたが、すぐにお伝えしてまいりますわ」


 菫と対照的に、彼女の父は巌のような武人だ。とたんに佐知彦はしどろもどろになった。


「いえ、その必要は――身像の姫の手を煩わせるほどのことでは」

「では、ぜひご自分でお会いになっていらして」


 有無を言わせぬ多岐都の風格に呑まれ、佐知彦はすごすごと立ち去った。夕星はすぐさま丁重に礼を言った。


「あいすみません。たいへん助かりました」


 多岐都は何でもないことのようにかぶりを振った。


「いいの。――舞があるのは、あの倉の前だったかしら」

「はい」


 舞を待つ者たちが、倉の周囲に集まり始めていた。年長者は他国からの遣いと近況を探り合うのに余念がなく、若い男女は気の合う者同士で恋の駆け引きに興じている。


「多岐都殿は、饗には何度かいらしているのですか」

「ええ。今年は見知った顔が少なくて残念。水分の里が悲しいことになってしまって」


 多岐都が言った時、庭の一角に巫女長が現れた。豪奢な刺繍の施された襷を締め、長い裳を引きずっている。その脇で若い巫女たちが、御饌をしずしずと倉へ運びいれた。陽の最後の一筋が沈むと同時に、巫女長は梯子をのぼって倉へと入った。


 あたりは薄墨を流したような闇に沈み、庭火が灯された。松明の眩しさに目を瞬きながら、夕星は口を開いた。


「多岐都殿は、先見をなさるのですか? 日向大王や、よつぎの台与様と同じように」


 身像が古くから大国だったのは、大王と同じ先見の力があったからだろうか。そう思って訊いてみたが、多岐都は首を横に振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る