十 邂逅
長い初夏の陽も暮れかかり、青い闇が広がり始めている。日が落ちる前に帰ろうと、夕星は馬首を返した。はっきりと尋ねる声が響いたのは、その刹那だった。
「誰と話していた」
咄嗟に辺りを見回した。尾けられてはいなかったはずだ――そうであれば、とうに葉隠が気づいている。思ったとき、向かいの山に声の主が見つかった。谷を挟んだ斜面の道からこちらを見据えている。
大きな黒馬に乗った若者だった。
見たことがないほど逞しい体躯と、浅黒い精悍な顔がこちらを向いていた。身分の高さがひと目でわかる衣の肩に、
夕星は半ば見惚れるようにして、彼に目を奪われていた。すぐにこの場を離れるべきだと、本能が囁いていたにもかかわらず。
不意に相手が眉を顰めた。
「そなた、只人ではないな。何者だ」
その意味はすでに夕星にもわかっていた。神々の裔であるということ――その証である、強い余韻を残す眼を持つということだ。この美しい武人と、同じように。
ここで見抜かれるべきではないことだった。彼は、熊襲の者だ。
「夕星様」
葉隠が囁いたのと、あらん限りの力で馬の脇腹を蹴ったのが同時だった。驚き嘶いた馬は、来た道を戻って疾駆し始めた。薄暗い木立を駆け抜ける間も、燃えるように強い視線が脳裏から離れない。
長の館に戻り、宴の喧騒を耳にしたとき、夕星はようやく安堵の息をついた。どっと押し寄せた疲労に肩を落とし、厩に馬を戻す。
「あの者は、いつからあの場にいただろう」
浮かない声で尋ねると、葉隠が静かに答えた。
「姿を現したのと、夕星様に声を掛けたのはほぼ同時でした」
「そう」
何のために
胸騒ぎがするのは、敵国の者に会ってしまったからだけではなく、彼の美しさのせいでもあったことに、夕星は気づいていなかった。
「――ですので、婚礼の支度は滞りなく進めております」
大王の館で執り行われる、
祭儀のため智鋪の各所からおとずれた遣いに、夕星も面会している。高良彦が
遣いは近隣の
菟狭の言葉は比較的聞きとりやすかったものの、別の意味で居心地が悪かった。長の息子の佐知彦なる若者が、絶えず舐めるような視線を送ってきたからだ。
次に控えていたのは、
身像は都の北東にある沿岸国だ。海と道を司る
涼しげな切れ長の目、白い頬に形の良い唇が揃った多岐都の顔は美しかった。目の覚めるような青い裳と帯、それに
「饗の祭りに、新穀のことほぎを奏上に参りました。身像の
他の謁見にはない緊張が走った。貢納に訪れる彼女たちと智鋪の立場の違いは明らかなのに、慇懃さの裏に敵意がひそんでいる。
「遠いところをよくぞ来られた」
何十回目かわからないせりふを、高良彦は冷ややかに述べた。彼もまた、他のときと明らかに様子がちがっていた。
「姉ぎみの多紀理姫は伊都での任を解かれ、身像に戻られるはこびとなった」
伊都国は都の西北に位置する沿岸国だ。当地には海の向こうの
身像にも大きな水門があるが、入ってくるのは秋津洲との交易船だ。伽羅国からの遣いが来ることはなく、智鋪を代表することもある伊都とは立ち位置がちがう。広間のはりつめた空気も、それを雄弁に伝えていた。
冷たい笑みをたたえた多岐都が言った。
「姉は私と入れ替わりに、身像へ戻ることになっております。おそれながら、今後はわたくしが伊都での任を引きつがせていただきます」
多岐都の語調が、急に刺々しさを増した。どうやらこの話題こそが、彼女が突き放した態度をとる理由らしい。
高良彦が、まったく本心から思っていない口調で返した。
「日向大王の嗣は、多紀理姫のもと健やかに育っていると聞く。多岐都殿のもとでも、
大王が嗣とする宗女の台与が、伊都で巫女の修養を積んでいることは夕星も知っていた。身像の姫がその侍女を務めていることは初めて知ったが、こんどはその役目が妹である多岐都に引きつがれるらしい。
夕星が見つめる前で、多岐都はやや仰々しいほど丁寧に首を垂れた。
「ご期待、畏まり極まることでございます」
よそよそしい言葉の応酬で、居心地はきわめて悪かった。だが夕星以外の者はみな、何も起こっていないかのような顔をしている。身像の姫が智鋪に不満を抱いているのは、すでに周知の事実ということか。
「朝霧」
出しぬけに名を呼ばれ、夕星は息が止まりそうになった。
「はい」
「饗の日和はどうだ」
高良彦の仏頂面がこちらを見ていた。ここ数日で何度も繰り返された問いだ。
「はじめから終わりまで、あたたかく晴れるかと存じます。そののちは雨になりますので、帰路はくれぐれもお気をつけくださいますよう」
多岐都は夕星をしげしげと眺めた。只人ならざる娘がなぜここにいるのか、心底不思議がる様子だった。
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