九 水分の里

 智鋪に来てふた月も経つころには、高良彦はすっかり夕星を気に入っていた。風読の正確さを知った彼は、水分みくまりの里の復旧に夕星を同行させた。熊襲の襲撃で焼き尽くされた家々やみぞを再建する間の天候を見させるためだ。

 実際、人工にんくたちは風読に沿って最適な時に作業し、風雨の前にはあらかじめ養生することができた。


 夕星は科戸でも似た務めを担っていた。勘が囁く通りに風を告げると、人々は漁に出、あるいは野分の前に収穫を急いだ。あのころと違うことと言えば、高良彦がひそかに襲撃の背景を探ろうとしていることだけだ。


「これまで熊襲が、水分の里を攻めたことはなかった」


 里への道すがら顛末を語った高良彦に、夕星は尋ねた。


「それなのに、跡形もなく滅されたのはなぜです」


「しばらく前から当地の長が、天之尾羽張あめのおはばりを手に入れたと喧伝していたらしい」


 天之尾羽張とは、大八洲おおやしまを産み出した父神が火の神を斬り捨てたという剣だ。昔語りでしか聞いたことのない道具だった。


「小さな里の長が神の剣を?」


 夕星が首を傾げると、高良彦もまた納得していない面持ちで頷いた。


「里人から聞いた限りではな。熊襲の長――かの国では渠帥者いさおと呼ぶ――の鞠智彦くくちひこは、火の神の末裔だ」


 火の神軻遇突智かぐつちは、生まれ出でるときに自身の炎で母神の女陰を焼き、その死を招いた。怒り狂った父神は、天之尾羽張で彼を斬り殺したとされる。


「あれらにとって脅威になる天之尾羽張を、水分の里が手に入れた」

「一体、どこから」

「わからぬ。鞠智彦が剣を探しに来たのは間違いない。だが長の一族郎党が一夜にして絶え、どんな代物だったかもわからずじまいだ。生き残った者に訊いても、なにも知らない」

「剣は熊襲に奪われてしまったのですか」


 いや、と高良彦は否んだ。


「熊襲の者たちは剣のありかを問い詰めながら、長の一族を一人ずつ斬っていったらしい。三人の子息と、二人の姫君もな。燃える館にぎりぎりまで身を潜めていた下男が見ていた」


 凄絶な出来事を、高良彦は淡々と語った。


「幼い二人の子息と年下の水光みひかり姫が斬られたところで、その者は館を逃れた。上の罔象みつは姫と嗣の長子、長自身も、おそらく同じように死んだ。焼け跡から骸が数多見つかったからな。その後も兵たちは、智鋪の援軍に追い払われるまで天之尾羽張を探していたらしい」

「では、剣はまだ里に?」

「わからぬ。どんな剣か知らないので探しようもないが、一つの里が焼かれた理由が判然としないのは気に入らん」


 高良彦が来たのは表向き復興のため、実際は天之尾羽張について探るためだった。成果ははかばかしくなく、家や水路は直ったものの、剣については何も収穫がなかった。


 不機嫌な高良彦の目を盗んで、夕星はひとり掘立柱の母屋の裏手へ向かった。


 薄紅の陽が差す厩に人影はなく、馬たちが静かに尾を揺らすばかりだ。夕星は自分の馬を見つけ出すと、脇の納屋に置かれていた馬具を付けにかかった。


 待ちきれず鼻を鳴らす馬の首を撫でながら、馬銜はみと手綱をつけ、あぶみと鞍を据えた。柵を足掛かりにして、男たちがするように馬に跨る。移動の時は横ずわりにしていたが、本当は勢いよく馬を駆りたくて仕方なかったのだ。


 夕暮れの中、夕星は馬腹を蹴って駆け始めた。南の国境を越えなければ――山裾の谷を越え、熊襲国に入らなければ――危険はないと聞いていた。


 馬は飛ぶように駆けた。里の山中に入り南へ向かうと、程なくして周囲が開け、舞台のように張り出した断崖へ出た。眼下の谷には水流が満ち、対岸の山肌からは熊襲国となる。


 視野の西半分を山の斜面が覆う一方、東にはなだらかな丘陵が折り重なっていた。夕星は馬を止めると、息を静めてから口を開いた。


「葉隠」


 は、と短い声が虚空から返る。


「変わりなくしていたか」

「はい」


 長の館を離れたのは、大王たち以外に存在を明かしていない葉隠と話すためだった。館のなかでは常に誰かしらがそばにいたため、しばらく聞けていなかったその声を、今日は無性に聞きたくなってしまったのだった。きっと、朱鷺彦が夢枕に立ったからだと思う。


 東に昇る月を横目に、夕星は呟いた。


「科戸の山がこのように緩やかだったら、身を隠しながら逃げることは叶わなかったな」


 葉隠は黙したままだ。切羽詰まった事態のない最近は、何を話しかけても聞き流されてしまうことが常だった。彼から言葉を引き出すべく、言いかたを変えてみる。


「そなたの手腕ならそれも心配なかったかな」

「どうされたのですか。取って付けたように」


 やや呆れたような声が返ってきて、夕星は我知らず口の端に笑みを浮かべた。


「せっかく誉めたのにつれないな」


 言いながら胸には、はしゃいだ気分と唐突な不安とが同時に押し寄せた。平穏な暮らしが突然消え失せるのではないかという恐れが、いまもある。郷里の滅亡はあまりに呆気なく訪れた。手放しで喜んだ瞬間、智鋪での平安も掻き消えてしまうのではないか、と。


「葉隠――其方はいったい、幾年いくとせを生きられる?」


 ずっと知りたかったことを、夕星は尋ねた。


 誰とも娶せられなければ、自分は長らえられるだろう。だが葉隠はいつまで、夕星の護りでいてくれるのか。


 彼が何者であるかに関わる問いは、これまですべて空振りに終わっていた。しかし今回は、葉隠が口を開いた。


「私は身体を捨てております。病や怪我で死ぬことはございません」

「――そうか」


 驚きつつも、夕星は呟いた。


「身体を捨てたとはどういうことだ?」


 沈黙だけがあった。微風に靡く馬の鬣を眺めながら、重ねて訊いた。


「ならば其方は死なないのか」

「死は、護るべき主がなくなった時のことと聞いております」


 夕星が生きている限り、葉隠の命も続くらしい。安堵すると同時に、迂闊に命を落とすことだけは避けねばならない、と思う。彼の命は護りの務めと紐づけられている。


 そう思うと、胸のなかに灯がともったような心地がした。いままで、唯一の相手の妻になって死ぬことを定められてきた。その役割が消えたあと、虚ろになっていたなにかが新しく満たされたように感じる――自分は今度は、生きるという務めを得たのだ。


「ありがとう」


 不意に心を温かくした気持ちがなにかわからないままに、夕星は呟いた。


「聞かせてくれて嬉しい」


 きっと今日、これ以上のことを葉隠は教えてくれないだろうという気がした。だが、それでいい。これまでの寡黙さを補ってあまりあるものを、今日は知ることができたから。

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