九 水分の里
智鋪に来てふた月も経つころには、高良彦はすっかり夕星を気に入っていた。風読の正確さを知った彼は、
実際、
夕星は科戸でも似た務めを担っていた。勘が囁く通りに風を告げると、人々は漁に出、あるいは野分の前に収穫を急いだ。あのころと違うことと言えば、高良彦がひそかに襲撃の背景を探ろうとしていることだけだ。
「これまで熊襲が、水分の里を攻めたことはなかった」
里への道すがら顛末を語った高良彦に、夕星は尋ねた。
「それなのに、跡形もなく滅されたのはなぜです」
「しばらく前から当地の長が、
天之尾羽張とは、
「小さな里の長が神の剣を?」
夕星が首を傾げると、高良彦もまた納得していない面持ちで頷いた。
「里人から聞いた限りではな。熊襲の長――かの国では
火の神
「あれらにとって脅威になる天之尾羽張を、水分の里が手に入れた」
「一体、どこから」
「わからぬ。鞠智彦が剣を探しに来たのは間違いない。だが長の一族郎党が一夜にして絶え、どんな代物だったかもわからずじまいだ。生き残った者に訊いても、なにも知らない」
「剣は熊襲に奪われてしまったのですか」
いや、と高良彦は否んだ。
「熊襲の者たちは剣のありかを問い詰めながら、長の一族を一人ずつ斬っていったらしい。三人の子息と、二人の姫君もな。燃える館にぎりぎりまで身を潜めていた下男が見ていた」
凄絶な出来事を、高良彦は淡々と語った。
「幼い二人の子息と年下の
「では、剣はまだ里に?」
「わからぬ。どんな剣か知らないので探しようもないが、一つの里が焼かれた理由が判然としないのは気に入らん」
高良彦が来たのは表向き復興のため、実際は天之尾羽張について探るためだった。成果ははかばかしくなく、家や水路は直ったものの、剣については何も収穫がなかった。
不機嫌な高良彦の目を盗んで、夕星はひとり掘立柱の母屋の裏手へ向かった。
薄紅の陽が差す厩に人影はなく、馬たちが静かに尾を揺らすばかりだ。夕星は自分の馬を見つけ出すと、脇の納屋に置かれていた馬具を付けにかかった。
待ちきれず鼻を鳴らす馬の首を撫でながら、
夕暮れの中、夕星は馬腹を蹴って駆け始めた。南の国境を越えなければ――山裾の谷を越え、熊襲国に入らなければ――危険はないと聞いていた。
馬は飛ぶように駆けた。里の山中に入り南へ向かうと、程なくして周囲が開け、舞台のように張り出した断崖へ出た。眼下の谷には水流が満ち、対岸の山肌からは熊襲国となる。
視野の西半分を山の斜面が覆う一方、東にはなだらかな丘陵が折り重なっていた。夕星は馬を止めると、息を静めてから口を開いた。
「葉隠」
は、と短い声が虚空から返る。
「変わりなくしていたか」
「はい」
長の館を離れたのは、大王たち以外に存在を明かしていない葉隠と話すためだった。館のなかでは常に誰かしらがそばにいたため、しばらく聞けていなかったその声を、今日は無性に聞きたくなってしまったのだった。きっと、朱鷺彦が夢枕に立ったからだと思う。
東に昇る月を横目に、夕星は呟いた。
「科戸の山がこのように緩やかだったら、身を隠しながら逃げることは叶わなかったな」
葉隠は黙したままだ。切羽詰まった事態のない最近は、何を話しかけても聞き流されてしまうことが常だった。彼から言葉を引き出すべく、言いかたを変えてみる。
「そなたの手腕ならそれも心配なかったかな」
「どうされたのですか。取って付けたように」
やや呆れたような声が返ってきて、夕星は我知らず口の端に笑みを浮かべた。
「せっかく誉めたのにつれないな」
言いながら胸には、はしゃいだ気分と唐突な不安とが同時に押し寄せた。平穏な暮らしが突然消え失せるのではないかという恐れが、いまもある。郷里の滅亡はあまりに呆気なく訪れた。手放しで喜んだ瞬間、智鋪での平安も掻き消えてしまうのではないか、と。
「葉隠――其方はいったい、
ずっと知りたかったことを、夕星は尋ねた。
誰とも娶せられなければ、自分は長らえられるだろう。だが葉隠はいつまで、夕星の護りでいてくれるのか。
彼が何者であるかに関わる問いは、これまですべて空振りに終わっていた。しかし今回は、葉隠が口を開いた。
「私は身体を捨てております。病や怪我で死ぬことはございません」
「――そうか」
驚きつつも、夕星は呟いた。
「身体を捨てたとはどういうことだ?」
沈黙だけがあった。微風に靡く馬の鬣を眺めながら、重ねて訊いた。
「ならば其方は死なないのか」
「死は、護るべき主がなくなった時のことと聞いております」
夕星が生きている限り、葉隠の命も続くらしい。安堵すると同時に、迂闊に命を落とすことだけは避けねばならない、と思う。彼の命は護りの務めと紐づけられている。
そう思うと、胸のなかに灯がともったような心地がした。いままで、唯一の相手の妻になって死ぬことを定められてきた。その役割が消えたあと、虚ろになっていたなにかが新しく満たされたように感じる――自分は今度は、生きるという務めを得たのだ。
「ありがとう」
不意に心を温かくした気持ちがなにかわからないままに、夕星は呟いた。
「聞かせてくれて嬉しい」
きっと今日、これ以上のことを葉隠は教えてくれないだろうという気がした。だが、それでいい。これまでの寡黙さを補ってあまりあるものを、今日は知ることができたから。
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