八 喪失

 夕風のなか、葉隠が再び口を開いた。


「風読の館を守っていた武人は、あの夜残らず命を落としました。科戸に残って戦うことは叶いませんでした」


 夕星は頷いた。正確に言えば科戸は、民草を守るための手札を最初から持たなかった。はなから出雲と戦うことなどできなかったのだ。


「私が大人しく、出雲に引き渡されていれば」


 手立てもなしに抗うのではなく、早々に出雲の者に娶せられていればよかった。そうすれば科戸の大多数の者は変わらぬ暮らしができただろう。朱鷺彦だって、命を落とすことはなかった――なのに自分は彼や、科戸の民の命を贖おうとしなかった。


 意外なことに、今度も葉隠は言葉を返した。


「夕星様が出雲に囚われれば平穏が訪れたかは、誰にもわかりません。朱鷺彦様は、風読を手に入れた出雲が、いずれ科戸を弾圧すると考えていました」


 はたと夕星は考え込んだ。涼しくなり始めた風が、涙に濡れた頬を撫でていく。


「私を奪えば、科戸を生かしておく理由がなくなるからか」


 はい、と葉隠は言って続けた。


「それどころか、風読を盾に科戸が出雲に介入するなどの言いがかりをつけ、攻め込んでくることも有り得た。――風読を渡した科戸に、力は残らない。だからこそ、夕星様を渡すわけにいかなかったのです」


 だんだんと、慌ただしかった日々のことが思い出されてきた。


 遣いが来てから襲撃までの間に、父や近衛たちは何度も頭を寄せ合っていた。そこから聞こえた断片的なやり取りが、初めてひとつの形を成した。


「そうか」


 夕星は深く息をつくと呟いた。


「――私は、科戸の状況すら解していなかった」

「誰も貴女様にお伝えしなかったからです」


 淡々とした声に、夕星は胸を衝かれた。


 自分はずっと、本当の意味で国長ではなかった。天象を読む役割だけを期待され、朱鷺彦の妻として死ぬことだけを夢見ていた。初めてはっきりとそのことに気付いた。


「そなたの言うとおりだ――それでも」


 長として何も救えなかった咎は、ずっと心の中に棲み続けるだろう。誰かにつないでもらった命を生き続ける限りは。


 だがもう、科戸の風読として生きることはできない。新たな役割を見つけなければならず、その中にはあの子の怯えた目に応える何かがなければならない。強く、忘れられない印象を刻みつけるあの瞳に。


「国も民も失った私に残されたのは、風読の力だけだ」


 嘆息とともに吐き出した言葉を、葉隠は黙して聞いていた。


「その私に何かができるとしたら、うらで国を束ねる日向大王に仕えることかもしれない」

 数日暮らしただけでも、この館に活気が溢れているのは見て取れた。安寧が根付いた大国だからこその豊かさだ。


「高良彦殿は、いずれ秋津洲にも渡ると言っていた。この国のもたらす平穏がいつか科戸に及ぶことを、望んで懸けてみたいと思う」


 東の空に顔を出した月を、夕星は眺めた。何も言わない葉隠に、訊いておかねばならないことがあった。


「私はもう長ではないし、いまは天照あまてらすの裔に仕えようとしている。その私に、月読の臣下たる其方は、その私に引き続き仕えてくれるか」


 ここまで護ってくれた彼と、離れたくはない。しかし状況が大きく変わった今、葉隠の意志に反する務めを強いたくなかった。


「もし心に違わないのであれば、変わらず私に仕えてほしい。其方には、私には見えないことも見えているようだから」


 これまでは、短い命を恋情で満たすことだけを考えていた。その世間知らずさを教えてくれた葉隠に、夕星は不思議な信頼を覚えた。


 もし彼が自分のもとを離れるなら、短剣と勾玉を渡そう。そう覚悟を決めたとき、葉隠はごく短く言った。


「御意」





 生まれて何度目かに、春が来ていた。


 庭でひとり遊びをしていた夕星は、あるとき派手に転んで手も足も擦りむいた。折悪く誰もそばにおらず、独りでめそめそと泣いた。


 その頃の自分は思うように大人に構ってもらえず、いつでも寂しかった。話したいこともやりたいことも沢山あったのに、誰も一緒にいてくれない気がしていた。


 肌寒い庭でうずくまっていると、背の高い――あとからわかったことには四つ年上の――少年が来て、近くにしゃがみ込んだ。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、優雅な色白の顔と視線がぶつかった。


「何があった?」


 尋ねられた夕星は、おずおずと答えた。


「転んだの。痛いの」

「かわいそうに」


 少年はすぐさま、柔らかい手で夕星の髪を撫でた。驚いてまじまじと彼の顔を見つめると、少年は首を傾げた。


「どうした」

「怒らないの?」

「なぜ?」


 相手は心底不思議そうに言った。その顔は穏やかで、夕星がふだん接する大人のような厳しさはなかった。


「泣いてはだめだって」


 いつも皆から叱られることだった。しかし少年は、あっさりと呟いた。


「それは大人のすることだから」


 放心したようにこちらを見る夕星に、彼は手を差し伸べた。


「立ってごらん」


 少年は夕星の衣から土を払ってくれた。彼が手結をずらして捲った袖から白くなめらかな肌が現れ、束の間目を奪われた。


「ここへ来る途中、貴女の乳母に会ったよ。貴女を探していたから、行ってあげるといい」


 指で示した彼に、夕星は不意に尋ねた。


「貴方はどこへ?」

「この館を案内してもらうのだ。もう行かないと」


 庭へは偶然通りかかっただけらしい。残念に思いながらも頷き、彼を見送った。少年は最後に夕星の頭を撫でると去った。


 夕星が擦り傷をこしらえても泣いていないことに、乳母は驚いた。そして、その日行う風招かぜおぎの祭祀に向かうため、急いで着替えるよう言った。


 翌年、彼は再び夕星の前に現れた。風読の館に住んで、国長を護る近衛の務めを学ぶためだった。


 やたらと自分を慕う夕星に朱鷺彦は最初戸惑っていたが、だんだんと一緒に過ごす時間は長くなっていった。彼が許婚になると告げられた十二の時、胸がはっきりと熱くなり、強い安堵に満たされたのを覚えている。


 朱鷺彦は誰より夕星を気にかけてくれたが、時折ふと寂しそうにすることがあった。


 子を成せば命を落とす風読の定めを思い、葛藤していたのだとのちに知った。夕星の父が亡き妻への思慕に囚われるあまり、一人娘とほとんど関わらない様子だったのも悩みに拍車をかけた。


 夕星にとっては、もとより短いと決まっていた命を、彼に恋して終えられるのは願ってもないことだった。それ以外、何も望みようがなかったから。


 まさか朱鷺彦が自分より先に逝ってしまうなどと、思いもよらなかったのだ。

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