七 童

 地面の上で何かが身動きしたようだった。警戒しつつ首を巡らすと、回廊の角の下に小さな影を見つけた。高床を支える柱に身を寄せ、蹲っている。


 階を降り近づいてみると、七つか八つと思しき子どもだった。薄闇の中でも、髪は土に汚れて固まり、服もぼろぼろなのがわかった。男女の判別もつかないうえ、げっそりと痩せている。息を詰めてこちらを見る眼の光だけが、鮮烈に強かった。

驚きつつも夕星は手を差し伸べた。


「おいで」


 子どもは怯えて微動だにしなかった。


「ここでは寒くて眠れまい。ねやを貸してあげよう」


 膝を折って屈むと、ようやく子どもはこちらににじり寄ってきた。言葉が通じたか定かでないが、警戒は解いてもらえたようだ。


 子どもは夕星の手を取り、導かれるまま歩き出した。だがゆっくりとしか歩けず、階をのぼるのをなぜか嫌がったので、抱いて運ぶことにした。


 子どもが痛そうに身を竦めた瞬間夕星は、その身体が燃えるように熱いことに気づいた。熱があるらしい。


 安心したのか、子どもは寝所に辿り着くころには瞼を閉じていた。薦の上に横たえてやると寝息はますます深くなった。





 翌朝、夕星が何者であるかを聞かされた白露が血相を変えてすっ飛んできた。彼女は閨にうずくまる子どもを見て、さらに仰天した。


「いったい――」

「この子が庭に迷い込んでいたから、ここに入れた。いけなかったかな」


 白露はぶんぶんとかぶりを振った。眠る子どもをまじまじと見つめる。


「高良彦様の一行が、大水の手当ての帰りに連れてきた子でしょう。行き倒れていたのを拾われたとかで。しかし目覚めた途端、男たちを怖がって逃げ出したと」


 白露は何気なく子どもの額に触れた手を慌てて引っ込めた。まだ熱が高いようだ。朝の明るさの中で、身体の汚れもさらに痛々しく見える。


「湯浴みをさせてやりたいのだけど」

「ええ、もちろん。私が連れてゆきます」


 話し声で目が覚めたのか、子どもはうっすらと目を開けた。しかし白露が触れようとするとひどく泣いて、夕星から離れようとしなかった。結局、夕星が湯殿へ抱いて連れて行くのに、白露が付き添う形になった。


 嫌がられながらもどうにか髪と顔を洗うと愛くるしい顔が現れた。女の子だった。


 腕と胴に続き、足を洗おうとするとふたたび抗われた。どこにも傷や痣はないのだが、いやいやをするように首を振る。


「痛くしないよ――暴れないで」


 言ったとき、子どもの内股にこびりついた血が見えた。赤黒く固まっていたのと、泥の汚れがひどくて気づかなかったのだ。血の跡はさらに、足の上のほうへと続いている。


 目覚めるなり男たちから逃げだした、という白露の言葉が蘇った。歩き方が覚束なかったのも、今なら合点がいく。痛みがひどく歩けなかったのだ。


 小さな身体に何が起こったか悟った夕星は、言葉を失った。可能な限り怖がらせないよう、ゆっくりと身体を洗う。黒い瞳の奥には、根強い恐怖があった。


 寝床に戻ると、子どもは前後不覚の眠りに落ちた。その後も夕星はそばについていたが、女の子は眠るかぐったりと横たわっているかのどちらかだった。


 名を訊かれても答えられない。咳き込むほどの勢いで物を食べたが、胃の腑がそれを受け付けずに戻してしまう。それでさらに消耗し、寝込むことの繰り返しだった。


 ある日、冬のような寒さに見舞われた朝を境に、子の具合はみるみるうちに悪化した。やがて水すら受け付けなくなった口から、うわ言だけが虚しく繰り返された。


「火が、火が」


 熱に魘されながら、恐ろしかったときのことを夢に見ているようだった。抱きかかえても声をかけても、悪夢から目覚めさせることはできなかった。


水脈みおが吞まれる――」


 寝床で手足を振り回す女の子は、見えないものに襲われているかのようだった。最期はうわごとを言う力も尽きて、静かに息を引き取った。


 死して初めて安らかになった子どもの顔を、夕星はいつまでも眺め続けていた。





 亡骸がはぶりへ運ばれるのを見送ってから、夕星は子どもを最初に見つけた庭へ向かった。階の一番下の段に腰掛け、ひとり茫とする。


 あの夜人買いを殺めなかったら、自分も同じ道を辿っていた。出雲に連れ去られた場合にも、きっと。


 自分の身体も魂も壊しつくす者――そうすることに躊躇いすら抱かない者に囚われた惧れが、ずっとあの子を苛んでいたのだ。


 夕星は幸い、朱鷺彦や葉隠に護ってもらうことができた。だがあの子には、身を護る手立てがなかった――郷里の科戸の者たちと、同じように。


 故郷から脇目も振らず逃げてきたことに、いまにして猛烈な後悔が湧きあがっていた。あの子どもが思い出させた民草の存在が、考えを揺さぶる。知らないうちに何度も涙を拭っていた。


 あたりが黄昏れだした頃、不意に声がした。


「夕星様」


 葉隠の声を数日ぶりに聞いた。子どもの看病の間、一言も話していなかったのだ。


「何だ」

「夕餉の刻限に戻らなければ、白露殿が心配されます」

「うん」


 話しかけても必ず答えてくれるわけではない彼が、こんな言いかたをするのは初めてのことだった。


「わかっている」


 彼の気遣いはありがたかったが、まだ戻る気にはなれなかった。夕星は言った。


「あの子どもは、男たちに何度も襲われていた」


 野宿をしながら流離う途中で捕まり、弄ばれたのかもしれない。売られて働かされていたところを逃げ出したのかもしれない。いずれにしろ家や親を亡くし、ひとり彷徨っていたのがことの発端だろう。


「そなたがいなければ私はいまごろ、あの子と同じところにいた。常に怯えて、誰からも触れられないことだけを望むようになっていた。科戸にも、同じ思いをした者がいただろう。でもあの子に会うまで、私はそのことを考えもしなかった――私は、長だったのに」


 流転の身を嘆き、生きているほうが辛いとすら思っても、人買いに襲われれば腕はもがき、大王の手が差し伸べられればそれを取った。朱鷺彦や葉隠がつけてくれた道筋に沿って、自分はいまも生きている。故郷とともに死のうとしていた自分が。

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