六 盟約

 口を挟んだ高良彦に向かって、大王は頷いた。


「巫女長を向かわせた時、この娘は空のうつろいを言い当てていたらしい。おまけに、逃げ出した其方の鷹を連れ帰ってきた」

「ほう。あの鷹が俺以外の者に近寄るとはな」


 高良彦は軽く目を見開くと、考え込むような顔をした。そして再び口を開いた。


「日向大王が先を占う力は、筑紫洲では誰もが認めるところだ。入り乱れて戦うばかりでまとまらなかった、百余国が統べられるほどにな。その大王が招いた者を脅かすことはしないし、ここに留まることにも異存はない」


 内心安堵したのもつかの間、高良彦は言葉を切ると表情を引き締め、続けた。


「だが、其方が落ち延びた顛末で解せぬことがある。――其方の郷里からこの御笠まで、娘がひとりで辿り着けるとは到底思えん。追っ手を振り切れる道を嗅ぎ分け、穴戸を渡らせたのは誰だ。誰の助けを借りた?」


 血の気の多そうな口調はなりを潜め、彼の声はあくまで静かだった。


「大王が先ほど、連れの者も気兼ねなく聞けと言ったな。その者が其方を連れてきたのか? 姿を現さないのは何故だ」


 不意に大王が口を開いた。


「智鋪の王弟は、疑り深いことだな」

「俺は姉上のように先見の才がないのでな」

「それもそうであった」


 日向大王は、今気づいたと言わんばかりに呟くと、夕星を見やった。


「高良彦に話してやりなさい」


 葉隠が詮索を受けることは避けたい。最低限のこと以外は答えないと決めて、夕星は唇を開いた。


「里を出る際、許婚が追っ手の矢に倒れました。今際の際に、許婚は自らの護りに私を主とするよう命じました。その者が道を示し、追っ手が近づかぬよう計らってくれました」

「姿が見えないが、どこに隠れている?」

「私も姿は見ておりません。決して姿を現すことのない護りだと聞いております」


 事実だった。


「見えないのが常か。何者なのだ」

「私も存じませんが、何者であろうと貴方がたに障りはないはずです」

「しかし――」

「案ずることはない」


 不意に大王が、弟の声を遮った。


「主を護る時以外、何者も傷つけることはない」


 高良彦は軽く眉を顰めつつも、それ以上の追及はしなかった。ひそかに胸を撫でおろした夕星に、彼は別の問いを向けた。


「級長戸辺の娘は生き延びたわけだが、月読の民はどうした」

「死んだ許婚は月読の嗣でした。その父も同じ宵に落命しております。生芽はえきと呼ばれた彼らの里も制圧されました」

「なるほどな。逃げ延びた月読の臣下は、其方の護りだけと言うわけか」


 高良彦はしばらく宙の一点を見つめ考え込んでいたが、やがて姉を見据えた。


智鋪国ちほのくには、筑紫洲の北をあらかた制した。残る強敵は南の熊襲だけだ。いずれ秋津洲に出て行くにあたり、神の裔を多く味方につけるに越したことはない。月読の護りと級長戸辺の娘の合流は、いずれ智鋪に利する」

「いかにも」


 淡々と述べられた高良彦の口上に、大王はゆっくりと頷いた。目を瞬いた夕星を、高良彦が振り返る。


「其方に他のあてがあり、智鋪への合流を望まないなら話は別だが」

「――いいえ」


 それだけははっきりしていたので、夕星は首を振った。高良彦は大王に向き直った。


「出雲にいずれ対峙することまで考えて、級長戸辺の娘を招き入れたのか?」


 大王の微笑がにわかに愁いを帯びたが、唇は閉じたままだった。しばし姉を見つめていた高良彦は、やがて言った。


「まあ良い。秋津洲への足掛かりも風読も、利はあっても損はない」


 高良彦は再び夕星に顔を向けた。


「そなた、名は何という」

 大王の視線を感じながら、夕星は答えた。

「朝霧と申します」





 大王の居所から寝所に戻る途中、広々とした庭に足を止めた。あたりは宵闇に沈み、西の空だけが緋色に染まっている。庭を囲む回廊の階に腰を下ろし、息をついた。


 大王と高良彦は、夕星がこの館に住むことを許した。その代わり二人の命にはいつでも応じ、大王に会ったことは秘するようにとのことだった。寝食の心配はしなくて良くなったが、安心していいものかはまだわからない。


 周囲に誰もいないことを確かめ、夕星は虚空に呼びかけた。


「葉隠」

「は」

「そなたのことを、大王たちに明かしてしまい済まない」


 答えはないかと思いきや、どこか穏やかな声が言った。


「大王は既に気づいていましたから」

「そうだな。だが大王に仕えるのは私一人だ。其方には詮索がないようにする」


 沈黙が答えだった。


 夕星は懐から短剣を取り出した。黒鉄くろがねの鞘が薄暮のなかで鈍く光る。


「月読の神宝にも、気づかれたかも知れない。でも月読の裔に属するものだから、誰にも渡しはしない。――級長戸辺の娘にこれを持つことが許されるか、わからないけれど」


 白い勾玉は月光を受け、仄かに輝いていた。神宝とは短剣ではなく勾玉のほうではないか、とふと思う。


 神宝がどちらであろうと、自分が手を触れて平気でいられるのは不思議だった。風読が呪われたのは、神宝を我が物にしたがったためだ。なのに今、自分が無事でいられるのはなぜだろう。


 葉隠が静かに、だがはっきりと告げた。


「朱鷺彦様が神宝をお預けになったのは夕星様です。これまで通り、お持ちになることで良いかと」


 月読の臣下である彼の言葉は、少しだけ心を軽くした。夕星は頷いた。


「うん――ありがとう」


 短剣をしまい、立ち上がった。その時、微かな物音を聞いた。

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