第三章 影
一 伊都
眩しいほどに碧い海に、
「晴れて良かったわね。あなたの言う通り」
「行かないのか」
とっとと駆けて行く台与を追いつつ、妙に足取りの遅い多岐都に訊くと、拗ねたような答えが返ってくる。
「台与さまが追って来てほしいのは貴女よ。私じゃない。――早く行って」
小さく苦笑してから、夕星は駆け出した。
伊都へ任じられた夕星は、多岐都とともに台与の侍女となった。戦へ駆り出されたうえ、その後注意深く火を避けつづけることになった夕星に、多岐都はひどく同情してくれた――高良彦のことを、しばしば激しくこき下ろしながら。
多岐都のおかげで、務めには難なく馴染むことができた。たまに彼女が気乗りしないと八つの台与の相手を多分に任されることはあったが。そして今日もそうらしい。
潮の香りが漂う中、台与の声が響く。
「朝霧、早く来て」
「お待ちを、台与様」
天衣無縫な台与に、願いは大抵聞いてもらえない。だいぶ走ってから立ち止まった台与は、浜に屈むと石影で休む小さな蟹を見つけた。
「さっきも蟹を見つけたの。でもこちらのほうが赤くて綺麗」
無邪気な笑顔につられ、夕星も口元を綻ばせた。
一族郎党の誰より大王に近い力を持つ台与は、生まれ落ちたときから次の大王に指名されていた。
台与の母はお産で亡くなったため、母方の実家であり、大王の係累も多い伊都で育てられている。大陸への玄関口として政務も一部執り行われる伊都は、大王の嗣を育む場所としてはうってつけだった。
台与は何でも憶えが速く、黒々とした瞳に常に強い好奇が宿っている。明るくまっすぐな台与といることは、心を穏やかにしてくれた。冷静過ぎてときに冷たいと思われがちな多岐都のことも、夕星は好きだった。彼女は、台与や夕星にはたいてい優しい。
多岐都も台与が好きだった。只人の子どもは何をやっても泣いて懐いてくれなかったから、慕ってくれる台与のことが嬉しかったという。只人の子どもは只人に、そうでない子どもは只人ならざる大人に懐きやすいと、夕星は初めて知った。
何より、鞠智彦が夢に現れなくなったことが、夕星の気持ちを落ち着けた。この穏やかな暮らしが、このままいつまでも続けばいいと思っていた。
だから伊都での暮らしに不満はなかったが、多岐都は高良彦がときおり夕星を召喚することに嫌悪を露わにしていた。
「あの王弟は、いつになったらひとりで仕事ができるようになるのかしら。いつも大王や風読の尻馬に乗っているだけじゃない。貴女はどこでも、自分の力を役立てているのに」
多岐都の物言いはきつかったけれど、事実としてはそのとおりのところもあって、夕星は苦笑いしながら聞き流すのが慣例になっていた。
伊都に来てすぐに、夕星は
じきに、
「また、いた」
夕星の前で、台与が砂にしゃがんで何かを指した。小指の爪ほどの大きさの蟹がいた。
「見て、朝霧。こんなに小さい」
台与の言うとおり、動いているのが信じられないほどの小ささだった。なかば見惚れていると、台与がさらに言った。
「綺麗な紅ね。私の好きな色なの」
「いつもよくお似合いになっています」
白練色の衣と裳、それに深紅の腰帯が日の巫女の装いである。台与は晴れやかに笑んだ。
「大王の位を継ぐとき、私は
台与の齢にしては充分すぎるほど凛々しい横顔を、夕星は暫し見つめた。艶のある髪が風に吹かれ、幼い顔に纏わりついている。
意味ありげなことを打ち明けるのも、自分があす伊都を去ってしまうからだろう。先月突然、御笠へ戻れと報せが来た。別れの前に、今までにない話をしてくれたのが苦しい。
「本当の意味は、朝霧にしか教えないわ。ほんとよ」
台与は夕星も母の死と同時に生まれたと知っているので、母のこと――と言っても憶えていないので話題は限られていたが――をよく夕星に話した。
「母君のことは、多岐都には話せないの。何だか口が重そうだから」
多岐都が母の話に触れないこともまた、台与が夕星とだけこの話をする一因だった。多岐都の態度の意味するところを知っていたから、夕星は言った。
「多岐都の気が進まないなら、無理に話すわけにも参りませんね」
多岐都の母は身像の国長で、大王との間に確執がある。彼女の妹、すなわち多岐都の叔母は、御笠への出仕の間に命を落とした。多岐都はごく幼い頃、最後に会った叔母をよく憶えていて、親族のなかで自分が一番叔母に似ていると度々言っていた。それをとりわけ、自慢に思っていることも。
台与は神妙な顔でうん、と頷いた。台与は人の心の機微にも敏感だった。
いつの間にかそばに来ていた多岐都は、二人の足元に蟹をみとめるとなかば呆れて言った。
「台与様は本当に蟹がお好きですね。都に海がないのが、今から心配になります」
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