三 穴戸

 さらに西へと、夕星は逃げた。海ぎわは敵が上陸している恐れがあるからと、葉隠は山中の道を選んだ。自然、道は険しくなる。悪路に疲弊した手足は、日に日に思うように動かなくなっていった。


 神の裔である夕星は、普通の女よりずっと丈夫に生まれついている。それでも、水と木の実だけを口にして草枕を続けるには限界があった。


 衣も裳も、煤や土でひどく汚れていた。いまなら誰も、夕星を科戸の姫と見抜くことはないだろう。西の隣国である穴戸の集落へ転がり込むべきではないか――考えるともなく考えた時、葉隠に呼ばれた。


「夕星様」

「何だ」


 生まれつき国長として育てられた夕星は、男のような言葉遣いをする。普通の女人のように話す相手は朱鷺彦と、ほとんど言葉を交わすことのない父だけだった。


「雨が降るやもしれません。日が落ちるには間がありますが、休まれたほうが」


 西の空に目をやると、たしかに濃い雨雲が流れてくるところだった。ただ、天上の風は山ではなく海へと吹いている。


「大丈夫だ。あの雲は海辺へ流れて、ここへは来ない」

「ならば、歩きましょう。追っ手が距離を縮めておりますゆえ」


 うなずいた夕星は、重い足で再び歩き出した。


 追跡者は執拗だった。沓くつ跡あとの残らない獣道を選んでも、川を渡って足跡を消しても、彼らは夕星のたどった痕跡をかならず嗅ぎつけた。夜になれば、遠くに焚かれた野営の火が目に入る。そして葉隠は昼間も、追っ手の姿を捕捉していた。どう見つけているのかはけして教えてくれなかったが。


穴戸あなとのどこかに身をひそめられないか?」


 疲弊しきった夕星が尋ねても、葉隠の返事はにべもなかった。


「追っ手を振り切れておりません。里へ下りれば手がかりを残すことになります」


 他国の誰かが、縁もゆかりもない夕星を守ってくれるとは考えにくい。敵へいたずらに手がかりを与えるだけになる可能性は高かった。

 深く息をついて、夕星はぽつりと呟いた。


「どうしてここまで、娘ひとりを追い続けるのだろう。出雲ほどの大国が」


 素戔嗚すさのおの裔が治める出雲国は、治山治水や黒鉄くろがねを生み出す技術で名高かった。その強国が、小国の長をこれほど必死に追ってくるとは。


 答えはないものと思った。逃走に必要なことでない限り、葉隠は答えてくれなかったから。しかし彼は静かに言った。


「貴女さまを捕らえれば、風読を永久に得続けることが叶います」


 夕星は慄然としだ。


 とりこにした自分を何者かと娶せれば、風読が生まれる。その娘を育て、また出雲の人間の子を産ませる。生まれた娘は出雲と科戸の禍根も知らず、粛々と風を読み続ける。


 出雲には、簸河ひのかわと呼ばれる暴れ川がある。平野を蛇行するその大河が氾濫すれば、甚大な被害が出た。人が治められない水を治める道具に、彼らは風読を選んだ。


 その日は夜まで、葉隠と言葉を交わすことはなかった。





 ある朝、視野が突如としてひらけた。西へ続く陸地が途絶え、右手ばかりに広がっていた海が前方にも現れたのだ。その海を挟んだ先に、広大な対岸がある。初めての光景に、夕星は茫然と見入った。ここは、大きな洲しまと洲のあいだの海峡らしい。


 外海から流れ込んだ潮が、複雑に入り組んだみぎわのあいだを激しくうねりながら運ばれていく。風もないのに、ところどころ白波が立っていた。


「葉隠」


 は、と短い声がした。虚空から返答が来ることにも、いまやすっかり慣れていた。


「向こうに見えるのは」

秋津洲あきつのしまとは別の洲のようです。筑紫洲ちくしのしまかと」


 そう、と夕星は呟いた。ついに秋津洲の果てまで辿り着いた。穴戸国あなとのくにもここまでだ。


「ならばここが穴戸関あなとのせきなのだな。昔、父上が言っていた」


 死ぬまで科戸で暮らすはずだった自分が、遥か遠くまで来たことにため息が出る。


「西へ逃げ続けるなら、海を渡らねばな。それとも南へ向かったほうが良いか?」


 斜面を回り込み、穴戸国を南へ逃げる手もある。しかし、夕星の足で南下できるかはわからない。案の定葉隠は、一拍の間を置いてから言った。


「南への道は崩れております。西へ進むしか」

「そう」


 葉隠はどうやって先の道を確かめているのだろう。気になったが、訊いても答えてくれないとわかっていた。


 重い足を引きずりながら、山をくだる。波音が耳に届き始めたころ、夕星はふと不思議な気配を感じた。


 天上の風の気配がわかるのと同じように、潮の気配が肌を打った。思わず波間に目をこらすと、外海から関へと引き込まれてゆく潮の大きな流れが感じられた。


 南の海が、北の水を引き寄せようとしていた。南で潮が満ちようとしているのだろう。しかし狭く入り組んだ関を、海水は素直に流れていけない。岸のそこここで流れが停滞し、いびつになった水の力で強い渦が生まれているのだった。


 今までにない感覚に戸惑い、夕星は口を開いた。


「葉隠」


 は、と低い声がした。夕星は訊いた。


「そなたには、潮の流れが読めるか――風がないのに、なぜ波が立つかわかるか?」


 しばらく沈黙がおりた。暑いくらいの春の陽に目を細めたとき、葉隠が言った。


「私にはあいにく。潮読みは、月読の長にのみ受け継がれる力でございます」





 舟を探してくると言った葉隠は、翌朝には本当に小舟を用意していた。


 どうやって手に入れたかについては、頑として口を割らなかった。代わりに、夕星が洞穴で大人しく待っていなかったことを責めた。


「早く岩陰に戻られませ。追っ手に姿を見られると思わなかったのですか」


 厳しい口調で言われ、夕星は、ごつごつと岩が這う磯を引き返した。今度は関から外海へと引っ張られる潮が、音を立てて流れている。隠れ場所の岩穴で、夕星は尋ねた。


「舟は近くに隠してあるのか」

「ええ。夜陰に紛れて海を渡れます。しばしお待ちを」


 夕星は頷いた。


「月が高くなるころに舟を出そう。ちょうど追っ手を引き剥がせる」


 意味を取りかねたのか、葉隠は黙した。夕星は付け加えて言った。


「ここは潮の向きが日に四度変わる。夜に変わるのは、ちょうど月が高く昇り、月の気配が濃くなる頃だ」


 葉隠が――たぶん――驚いた気配がした。


「月の気配とは?」

「おそらくだが、潮を引く力が空から働いている。月読の長が潮を読めるというなら、潮を動かすのは月の力なのだろう」


 月読の長は年に一度の祭りで海へ出て、神酒みきなどの供物くもつを沖への潮に捧げた。沖へと運ばれる流れは速く危険で、巻き込まれた者が溺れることもある。だがどの長も正確に安全な場所を探り当て、供物だけを託して帰ってくることで知られていた。


 月読の長が風読と違うのは、その力が生来受け継がれるわけではないことだ。なぜか長になってからでないと潮読みはできず、嗣が潮に攫われ亡くなったこともあるという。さらに不思議なことに、今その力は夕星に宿っている。


 夕星は言い訳するように呟いた。


「なぜ潮が読めるようになったのかは、私もわからないけれど」

「いえ――」


 躊躇いをにじませつつも、葉隠は続けた。


「確かにここは、風がなくても潮が速いようです。ならば別の力が働いているはず」

「うん。流れが変わるころに海を渡れば、舟で追われても振り切ることができると思う」


 葉隠はしばらく考え込むように黙ってから、言った。


「夜半にここを出ましょう。それまではお休みなされませ」


 頷いた夕星は、葉隠に潮が変わるころの月の位置を教えた。高くなった月が空をくだり始めてすぐに舟を出すのが良い、と。


 山で採った団栗どんぐりをあく抜きもしないまま嚙んだあと、夕星は浅い眠りに落ちた。潮を見るために一睡もしなかったせいか、その後長く目覚めなかった。





 目を開くと、あたりにはみぎわに寄せる波音が響いていた。


 載せられた小舟から身を起こすと、空にはくだり始めた月が浮かんでいた。波の向こうに、秋津洲が見える。海に一頭のくじらが頭をのぞかせ、悠然と泳ぎ去った。


 月影が照りわたる浜に、夕星は降り立った。渚のどこにも葉隠の姿はない。しかし、ここまで自分を連れて来てくれたのが彼なのは確かだった。


「ありがとう」


 秋津洲に背を向け、夕星は西へ向かって歩き出した。


 砂浜の向こうには、まばらな下草と松が立つばかりだ。葉隠が逃げろとも隠れろとも言わない今、自分は誰からも脅かされてはいない。天の原には、銀砂を散らしたような星がまたいている。


 ゆるやかな潮風を頬に受け、夕星は歩いた。砂に刻まれた足跡は、規則正しい波が寄せるたび、跡形もなく消えていった。


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