二 朱鷺彦

 不意に朱鷺彦の声が響いた。


「葉隠」

「は」

「追っ手は何人いる」


 またも放たれた矢は、頭上の枝に遮られて届かなかった。朱鷺彦の指から、徐々に力が抜けていく。


「二人」


 葉隠が答えるか答えないかのうちに、朱鷺彦が横身を木の幹に預けて立ち止まったようで、足音が止まった。ひどく苦しそうな呻き声と、血の雫が滴る音がする。だが、射干玉のような夜の闇に姿は見えない。


 冷たい何かが、心の臓を圧し潰していく。静けさのなか、葉隠だけが淡々と告げた。


「追っ手が、ここへ降りる道を探し当てました」


 朱鷺彦は喘鳴ぜんめいを押し殺しながら沈黙していたが、やがて言った。


「矢が三本ある。私とお前で迎え撃とう」


 は、と葉隠が淀みない声で答えた。苦悶の息のはざまで、朱鷺彦が言葉を継ぐ。


「夕星は行け。この国を出て西へ」

「朱鷺彦様――」

「私の短剣を持て。月読の神宝かむたからだ」


 月読のよつぎである彼が、他者に神宝を託す謂れはない。明らかにここで死ぬことを覚悟した台詞に、夕星はかぶりを振った。


「いいえ。私もここに」

級長戸辺しなとべの力を渡してはならぬ」


 断固として言った朱鷺彦は、また血を吐いた。ばたばたと滴が地面を叩く音は妙に大きい。焦りと、彼を見ることもできない歯がゆさが夕星の胸を焼いた。


 葉隠、と朱鷺彦が呼んだ。


「追っ手を討ち取ったら、其方は夕星と行け。そのときから風読を主としろ」

「しかし――」


 葉隠が戸惑うと、朱鷺彦が優しく苦笑した。


「お前まで私を困らせるな。いつものように従え」

「――は」


 まだ躊躇いの残る返答に、それで良い、と朱鷺彦が言った。すぐさまふたたび緊迫した声で葉隠が告げる。


「追っ手が参ります」


 そう遠くないところで、下草をかき分ける音が聞こえた。朱鷺彦が胡籙の矢に手をかけ、弓につがえる。


「この間合いでは見つかる。夕星は隠れていろ」


 荒い息の合間から朱鷺彦が囁いた。次の矢を口に咥えているのが、声音でわかる。


「急げ。弓で狙われる」


 有無を言わせぬ口調におされ、夕星は手探りで小道の脇の斜面に下りた。どうか追っ手の刃が朱鷺彦に届かないように、と思う。敵の手を逃れたとして、どうすれば彼を助けることができるかは、まったくわからなかったのだけれど。


 おりしも絶えていた夜風が吹きはじめ、夕星は葉擦れの音が朱鷺彦の喘鳴を消してくれるように祈った。追っ手がその音から、彼の居場所を突きとめてしまわないように。


 天上で風が逆巻き、月代つきしろを覆っていた雲がゆっくりと流されていく。微かな月影は、朱鷺彦の味方となってくれるだろうか。


 弓弦の唸る音がしたのはまもなくだった。同時に痛みに悶える男の声がした。朱鷺彦の矢が命中したのだ。


 ほどなくして、敵の矢羽根が空を切る音も届く。間髪おかず、ふたたび朱鷺彦の弓が鳴った。敵に当たったかは判然としない。


 最後の矢が射られたときには雲が完全に切れ、ほのかな月明かりが注いでいた。斜面をのぼり目を凝らすと、朱鷺彦が木の幹に背をあずけ、微動だにせず座り込んでいた。両腕は力なく垂れている。


 駆け寄ってみれば朱鷺彦は鳩尾の矢傷と、口から吐いた血で文字通り血まみれだった。顔は月のように白く、息は弱い。


「朱鷺彦様」


 跪いた夕星は、涙声で言った。朱鷺彦は初めて夕星に気づいたかのように、重そうに顔を上げた。こちらを向いた虚ろな目は、自分の面を捉えられていただろうか。


 朱鷺彦は優しげに苦笑した。


「追っ手はたおれた。逃げよ」


 諭すように言う朱鷺彦に向かって、夕星はかぶりを振った。たとえ生きることができても、彼とともにいるのでなければ意味がない。


「嫌です。朱鷺彦さまとおります」


 叫ぶように訴えても、許婚は哀しげに笑むばかりだった。


「じきに新たな追っ手が差し向けられる。行け」


 夕星は彼の手を取った。先ほどまで自分を先導していた手に、いまは力がない。それでもそこに温みがある限り、朱鷺彦のそばにいたかった。毒々しい赤の下に透ける肌が、いくら死人のように青白くても。


「しかし私の命は、貴方に捧げるために生まれたものなのです」


 間近にある顔も見えにくいのか、夜目が利くはずの朱鷺彦が目を細めた。微笑んだように見えたけれど、彼は夕星の言葉にうなずく代わりに言った。


風招かぜおぎの夕星――そなたは風を呼んでくれた。月影で敵を照らし出すために」


 彼の意図をとりかね、夕星は困惑した。風を読むことはできても、呼んだことは一度もない。死にゆく彼には、自分に見えない何かが見えているのか。


 次第に弱る声で、朱鷺彦は続けた。


「其方が生きることを望んだからだ。そして私は、其方を逃がしたかった」

「朱鷺彦様」


 葉隠が短く呼びかけた。


「追っ手は二人とも絶命いたしました」


 朱鷺彦は満足そうに笑んだ。脂汗の浮いた顔が、明らかに蒼さを増す。


「これからは葉隠が其方を護る」


 ゆるやかに夕星を突き放す言葉だった。


黄泉国よみのくににも、級長戸辺しなとべが風を吹かせていよう。そうである限り、私はいつでも其方に会える」


 風の女神の名を口にしたその声は、不思議に安らかだった。続く最期の言葉もまた、そうだった。


「風をありがとう。そなたと暮らしたかった」


 微笑が涙に霞んだ。朱鷺彦の指が夕星の手を離れ、涙を拭おうと白い頬へ持ち上げられる。そして手はそのまますとんと、地に投げ出された足の上に落ちた。


 上気した頬を涙が伝い落ちるあいだに、あれほど慕った許婚はもういないという事実が、夕星の脳裏に染みわたっていった。その手が命を喪い、鎧の草摺くさずりに横たわるのを、自分の目で間違いなく見たからこそ。


 そして彼の最期の言葉は、逃げろという繰り返された指示よりずっと優しく、生きるよう働きかけてきた。同時に残酷な導きでもあることに、このときはまだ気づいていなかったから。


「夕星様」


 葉隠の声がした。彼が見えるわけでもない虚空を、夕星は茫と見上げた。


「いつ追っ手が参るとも限りません。敵が来ないうちに西へ」


 うなずきながら、ふたたび朱鷺彦のむくろに目を向ける。腰帯に、月読の短剣が挿されていた。祭具である剣は、古いがよく磨きこまれている。環頭の柄には赤い紐で勾玉まがたまが結わえつけられ、月明かりに白く輝いていた。


 月読の里から駆けつけた、朱鷺彦の父が携えていたものだ。その彼もまた今宵落命し、嗣である朱鷺彦に短剣がゆだねられた。それからいくらも経たないうちに、まさか自分に託されることになろうとは。


「――あいわかった」


 朱鷺彦の瞼をそっと閉じ、短剣を抜き取った。立ち上がり、西に向かって足を踏みだす。続く道の先には、月読の里である生芽はえき――いまの自分が唯一身を寄せられる場所があった。


 走り始めた足音は、夜風が梢を揺らす音に消えた。一切の気配を感じさせない葉隠が道案内をした。


 そうして逃げても、生芽へ身をひそめることは叶わなかった。海から上陸した出雲の兵が、すでに里に火をかけていたからだ。


 東雲しののめの下、焼き尽くされた長の館の庭を、黒鉄くろがねの板甲に身を包んだ敵兵がうろつくのが遠目に見えた。


 どこかでこうなることを知っていた気がした。いずれにしろ、月読の長も嗣も喪われたいま、里だけがあったところで、そこはとうてい安全と言えなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る