風待つ朔 異伝
丹寧
序章 績麻(うみを)なす
一 急襲
その夜も
月影もない闇のなか、火は国長の館を抱く山の斜面にもおよびつつあった。幾人とも知れない敵の
高床の外廊を駆け、
だが、十六歳の
夕星はここ科戸国の長であり、風読だった。長が風や雲の動きを読み、農耕や漁労を助けてきた科戸国は、とくに華々しく栄えもしないが、同時に激しい貧窮もなく過ごしてきた。今宵、東の隣国である
数日前、風読の身柄を引きわたすようにと出雲が唐突に通告してきた。理不尽な使者を追い返すと、その後最初に強風の吹いた夜に火攻めが仕掛けられた。すぐに風は弱まったものの、大軍を前にした小国科戸になすすべはなかった。
火影が踊るなか、
「――お父上が、亡くなられました」
夕星は黙したまま唇を引き結んだ。
若い風読に代わり、実質的に国を率いていた父が死んだ。いまここで、いったい自分に何ができるだろう。
風は死んだように絶えている。夕星の心もまたすべての動きが止まったかのように、恐怖も焦燥もひどく遠かった。遠からず訪れる死が、早まっただけだからだろうか。すべての風読に、等しく早く定められた死が。
「夕星!」
鋭い声に呼ばれ、夕星は顔を上げた。目線のさきには、許婚の
「朱鷺彦様」
呟くと、武人らしからぬすべてを見通すような眼が哀しげに瞬いた。
「間もなくここを守り切れなくなる」
朱鷺彦の首筋には汗が流れ、息ははずんでいた。国一番の射手である彼は、丸木の弓を手にずっと大軍に抗い続けていた。背に負った
その彼が言うからこそ、やるせない現状もすんなりと腑に落ちた。夕星は頷くと、自分のものとも思えない口を静かに開いた。
「皆の者は各々逃げよ」
庭に立つ者たちを見渡しながら、夕星は続けた。
「ここに留まれば、風読の臣下として確実に命を奪われよう。裏の空井戸を通れば、麓に逃れられる。国長のもとにいたことは隠して生きろ」
誰も異論はないようだった。ただひとり、年配の侍女だけが強張った顔で尋ねた。
「姫様は、どうなさるのです」
ここで死を待つ、と言おうとした刹那、朱鷺彦が淀みなく言った。
「風読の姫は私が連れて落ち延びよう」
夕星は許婚を振り返った。その相貌は、これまでにない覚悟に満ちている。朱鷺彦に問いを向ける者はひとりもなく、彼もまた迷いを抱いていなかった。
ひっそりと息を止めようとしていた何かが、胸の奥で脈動した――まだ、彼といられる。それは夕星の命が続くかぎりにおいて、なにより重要なことだった。
弓弦の鳴る音は、いつのまにか絶えていた。ひとりふたりと去る者たちを見送ると、朱鷺彦は虚空に向かってある名を呼んだ。
「
は、と短い答えがどこからか響いた。声の主はどこにも見当たらない。夕星の当惑をよそに、朱鷺彦は姿のない声に向かって告げた。
「聞いての通りだ。西へ落ち延びる」
「御意」
「お前も夜目が利く。追っ手があれば知らせよ」
仰せの通りに、と答えた声は朱鷺彦より幾らか低いが、彼とそう変わらない歳のようだった。
朱鷺彦たち月読つくよみの神の
月読の里が科戸国に合一した頃から、月読の裔は姿を見せない
朱鷺彦が夕星の手を取った。間髪を入れずに彼は言った。
「行こう」
館の敷地を抜け、西の谷へ続く道に出る。あたりは死んだように静まり返っていた。
上がっていく自身の呼吸を聞きながら、夕星は腕を引かれるまま駆けた。月が雲に隠れているいま、夜目の利かない夕星は彼が頼りだ。弓弦を引き続けて固くなった、親指の付け根の感触だけが、闇のなかにも確かだった。
ところが間もなく、空を切る矢羽根の音が響いた。谷の上の断崖から、足音を聞きつけたと思しき射手が矢を放っている。こちらの姿が見えないため、狙いは甘く間隔も間遠だが、矢は執拗だった。
「北の崖に射手が」
葉隠がどこからか囁くと、朱鷺彦の手がぐんと夕星を引いた。つんのめりそうになりながらも、必死で走る。
「森まで転ぶな」
「はい」
木立に入れば、梢が矢を阻む。間もなく下草の種類が変わり、木から垂れさがった蔓が肩に触れた。安全な場所はすぐそこだ。
いっそう足に力を入れたとき、しかし鈍い音が耳を震わせた。夕星にはそれが、矢が人の身体を貫く音に聞こえた。
すっと背筋が冷えた刹那、朱鷺彦が小さく呻く。間もなく強い血の匂いがした。
「朱鷺彦様――」
「静かに」
小さく叫んだ夕星を、朱鷺彦が制した。不自然に力をこめて夕星の手を握り、駆け続ける。その間にも、明らかに苦しくなっていく呼吸が聞こえた。
今まで他人事のようだった不安と恐怖が、急に夕星の心を覆い始めた。故郷が燃えていても、朱鷺彦がかたわらにいる限りすべてを失ったとは思えなかった。だがもし、彼といることが叶わなくなったとしたら――
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