第一部 風読 月夜見

第一章 白縫

一 人買い

 その後、野営の火が見えることはなかった。追っ手との距離は縮まっていたから、関を渡れなければじきに追いつかれていただろう。差し迫った危機を躱した夕星だったが、心が晴れることはなかった。


 一体、どこへ向かえばいいのだろう。


 新たな暮らしのあてはどこにもない。それに、不思議なことに人里らしい人里に行きあたらなかった。ひたすら歩き続けた末、力つき息絶えてしまうのではないか――漠とした不安がわだかまり続けていた。


 あるいはそれで良いのかもしれない。夕星がここで息絶えれば、風読の力は出雲に渡らない。黄泉で朱鷺彦にも会えるだろう。彼の許婚という、何も変わらぬ身分のままで。


 その考えを知ってか知らずか、葉隠が行き先について話すことはなかった。ただひたすら西に歩を進めるだけだった。疲労も相まって考えは鬱々と巡るばかりで、手足は棒きれになったように力が入らない。


 そんな様子だったから、人買いに見つかったのも致し方ないことかもしれなかった。


 葉隠はいつもどおり寝ずの番をし、異変を知らせてくれた。浅い眠りのなか、夕星が目を覚ますのが遅れたのだ。


「夕星様」


 鋭い囁きに、夕星は眼を開いた。身じろぎしようとすると素早く制止された。


「動かれませぬよう。人買いがおります」


 耳をそばだてるよりさきに下草を踏む音がし、夕星は戦慄した。おそらく十歩の距離もない。


「すでに相手が近すぎます。逃げようとすれば手荒くされる」


 頷くのも恐ろしく、夕星はただ黙していた。望月の明かりのなか、胸の鼓動が耳を破りそうだ。


「私があれらの相手をいたします。合図をしたらお逃げを」

「あいつ、動かなかったか」


 男がぶっきらぼうに尋ねる声がした。いや、と別の声が答える。身体を縮こまらせたい気持ちを必死に押しとどめ、夕星はまぶたをきつく閉じた。


 不意に、石で何かを殴る鈍い音がした。同時に呻き声と、人が地面にくずおれる音がする。


「夕星様!」


 葉隠の声が響く。しかし、立ち上がった夕星があたりを見渡した途端、頭の後ろに石のように硬い物が飛んできた。声も出ないほどの痛みに、意識が遠のく。地に膝を折り、うずくまった。


 視野が霞む中、何者だ、と怒声が飛ぶ。答えはない。誰かが無言で走り寄ってきた。焦ったが、鉛のように重い身体を持ちあげることができない。


 そばまで走ってきた男が屈みこみ、夕星を仰向けにした。月光のもと、汚れた髪を束ねた髭面が目に入る。獰猛な視線が身体じゅうを這い、腰の短剣に止まった。男はすぐさま、柄に結びつけられた勾玉に手を伸ばした。


ぎょくか」

「やめろ」


 絞りだすような訴えは届かなかった。葉隠とやり合っている仲間に男が叫ぶ。


「上物の玉がある。娘は要らない」


 勾玉の値打ちを察した人買いは、早々に言った。娘ひとりを売り飛ばす手間より、勾玉を扱ったほうが実入りが良いらしい。

夕星が慌てて伸ばした手は邪険にはたかれ、短剣が奪われた。


「返せ」


 弱々しい抗弁は、相手のよからぬ欲をかえって刺激したらしい。男は下卑た笑みを浮かべ、夕星の下腹にまたがった。無遠慮な手が腰をまさぐり、背筋を強烈な悪寒が駆けた。


 この男にとって娘一人など、物と同じだ――抗わなければ確実に犯され、殺される。


 思ったとき、男が夕星の首元に手をかけ、衣を引き裂いた。むき出しになった肌が夜気に晒され、途端に恐怖が何倍にも増幅する。


「早く殺せ」


 葉隠と闘っている誰かが叫んだ。


「別に、いいだろう」


 うち震える夕星に、男は油断していた。仲間のほうを向いたまま低い笑いを漏らすと、短剣を地に置く。


 相手の一瞬の隙をつき、夕星は短剣を掴んだ。鞘から引き抜き、遮二無二振り回した刃は、こちらに向き直った男の二の腕を切り裂いた。途端に温かい大量の血が噴き出す。


「お前、何を――」


 身をよじって逃げようとしたものの、すぐさま男の荒れた手が首にかかった。身体を吊るしあげられるようにして首が絞められ、声も呼吸も奪われる。


 動かせない目線のさきに、梢からこちらをのぞく月があった。


「くそ小娘が!」


 武骨な指が喉笛に食い込み、夕星は死を覚悟した。


 ところが、首根への力はいっこうに強くなることはなかった。それどころか男の指は弛んでいき、夕星の足はまもなく地に着いた。ひどく当惑した男の顔が目に入る。


 血が、絶え間なく滴り落ちる音が聞こえていた。


 やがて、腕力で勝てるはずのない相手はあっさりと手を放した。後ずさる夕星を食い入るように見つめたまま、だらりと腕を垂らす。顔は死人のように蒼褪め、腕から流れた血が脇腹も足も真っ赤に染め上げていた。間もなく男は、半開きの口をわななかせながらその場に倒れ伏した。


 いったい何が起こっているのだ。葉隠はどこにいる。


 夕星は震える手で衣を掻き合わせ、胸を覆った。血が染みた布地がぬらりと肌に張りつき、首筋が粟立つ。


 あたりを見渡すと、男の仲間の声がしたほうに若者の後ろ姿が見えた。背が高く、簡素な衣と褌から伸びたしなやかな手足が月影に浮かび上がっている。射干玉のように黒い髪を後ろで束ねていた。足元には別の人買いが倒れている。


 目を瞬くと、若者の姿は消えた。雲が月にかかり、眩しいほど照っていた月光が陰る。


「夕星様」


 ふたたび名を呼ばれたときには、我知らず安堵で気を失いそうになった。


「葉隠」


 ほとんど叫ぶように彼を呼び、その場に座りこんだ。


「どこにいる?」

「ここにおります」


 声は実際、すぐそばに聞こえていた。だが夕星は自制を忘れて言いつのった。


「姿を見せて」


 どうしても、彼がそばにいると見て確かめたかった。


 いまの自分に、確かなことなど何もない。ひとりなら確実にここで死んでいた――人が人に刻み込める、最も深い傷を負わされた後に。だからこそ、ただひとり自分のそばにいるはずの彼の姿を目にしたかった。


「私の姿は夕星様には――」

「嘘だ。さっき、其方の後ろ姿を見た」


 彼をさえぎって否んだ声に、葉隠は答えなかった。代わりに尋ねた。


「月読の短剣を、使われましたか」


 予期せぬ問いに虚を突かれながらも、夕星はうなずいた。


「無我夢中で振り回したら、相手の腕の内側を切った。そうしたら、首を絞める力が弱くなって――動かなくなった」

「血の流れの多い場所だからです。そこを斬られれば、どんな大男でも倒れます」


 葉隠の冷静な声も、今度ばかりは心を静めてくれなかった。横たわる骸が、ひとつの事実を告げていたからだ。自分は、人を殺めた。


「葉隠――本当は、姿を現せるんでしょう」


 気付かないうちに幼い口調になっていた。その様子から彼も、夕星が本気で言っていることを感じ取ったに違いない。なのに答えはあくまで冷徹だった。


「賊がいつ目を覚ますとも限りません。すぐにここを離れましょう」

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