春海駅

廻季列車は春一番駅を飛び立った。

朝日を反射して桜たちは私たちを見送った。

旅人の背を押すように最期にビュンと大きい春一番が吹く。


桜吹雪で視えなくなった視界が開けた頃、次に目に映ったのはのどかな園田風景。


ちょうどどこからか目覚めたばかりの猫が定位置かのように隣に跳び乗る。


「24時間なんて忘れて戻ってこれないかと思ったけど、あたしの方が忘れてしまうなんてね」


不服そうだが、どこか気の緩んだその声に私も少し列車に馴染めたような気がする。


『まもなく〜春海〜春海〜』


車内アナウンスだ。

彼女に目配せをすると、ふいっとそっぽを向く。


「久しぶりの旅にあたしは疲れた」


『お降りの際は水飛沫にご注意ください』


列車の汽笛が鳴り、ドアが開く。

そしてもう慣れ始めた高揚感と共に私は列車を降りるのだ。

また、24時間後にただいまを言えるように。


飛沫に映る、春の海。


まだ月の影が残る昼に、

まだ春風のそよぐ夏に 、

皐月の海に飛び込んだ。


田植え前の四角い海。

乱反射する水面は、それが田畑であることを感じさせない。


たった数週間。

期間限定の春の海。


心地よい風の吹く今のうちに。


そう思っていたのが懐かしい。

軽やかに無人駅を離れ、それに飛び込む。

昔のように私はこの美しい水田に舞うのだ。


「久しぶり、また会ったね」


そう呟いたのは海よりも狭く、海よりも短い水田の中。

水飛沫が心地よい季節。


私にとっては海よりも身近で自分に似ている。


風が頬を掠めた。

水面が波立つ。

水中の生き物が息をする。

水温が肌を滑る。


生きている感覚とは、 そういうものなのだろう。


水に浮いて空を仰ぐ。

そんな私はあの頃の青春を追いかけているようだ。


そう思えばふと思う。


春一番駅での猫もそういうような気持ちなんじゃないだろうか。

輝かしい過去を追いかけて旅をする。

彼女の旅に答えは無いが、それでも彼女は過去の恩人の為に前に進もうとしているのだ。


きっと彼女がそうであるように、その恩人も前に進もうとしていたんだ。

そして、今も。


名前を捨てたと言っていたが、お土産に名前を持ち帰ろう。


恩人だけじゃない。

彼女を飼っていたかつての人もきっと仕方が無かったんだ。


彼女は水のように柔軟で、優しくて…

でも、しっかりしていて。


飛んだ飛沫が水面に落ちる。

薄く五線譜を描いてまた凪ぐ。


私は決心をして畦道をスキップする。

私が一本踏めば、虫がさざめき、カエルが鳴いた。


列車に戻る頃には蛍が踊り出していた。


「ただいま、"凪"」


春海は爽やかな季節。

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