旅人

廻季列車の車内は元の世界と比べれば異常そのものだ。


乗った瞬間から抜け毛も無ければ空腹感も無い。

床は鯉の入った氷が入っているが、氷は溶けないし鯉は泳がない。

それでもまるで今も生きていてこの瞬間を写真に収めたかのようなあぶくが残っている。


よく覗けば鯉はこちらを向いて話しかけてくるかもしれない。

そう思えるほどに生き生きとした床だ。


歩く乗客は少ない、ヒトなんかは私一人。

あとは猫や狐、狸に鳥…至って普通の動物たちだけだった。


長椅子に腰掛けた私はぼうっと車内の景色を見回す。なんて楽しい世界なんだろう。


まだ一駅も経っていないのに吊り革のようなツタが徐々に蕾を膨らませる。

なぜあるのかわからない机の上で土から芽を出す植物。


目を輝かせていると猫が寄ってきた。

軽やかに隣に座ると「にゃ」とひと鳴きした。


「新入りさんはなんでこんなとこに来たのかい」


分かりやすく戸惑った。

この声はこの猫から発せられたのだ。

やはりただの列車ではないことを無理矢理に自覚させられる。


「季節を巡る旅をするために」


私の答えに猫はちらりとこちらを見る。


「そうかい」


猫の反応は素っ気ないが、少し満足げ。


「あなたは?」


猫に問うてみる。

その意味は名前ともとれるが、どこへ向かうのかともとれる。

実に都合の良い言葉。


「…わたしの名を訊いているなら残念だけど名前は捨てたの」


彼女の青い瞳が何かを思い出すかのように伏せられる。


「わたしたちはそう多く景色を見られないから永遠と平穏を求めてここへ来る子が多いのよ」


他の乗客たちに見つめられる。

鯉たちも見ているのではないかと思うほどに。


私の覚悟とやらはどうやらずいぶんと甘いらしい。


重々しい空気を見兼ねてか、タイミングよく車内アナウンスがかかる。


『まもなく〜春一番〜春一番〜

お降りのお客様は24時間後までにお戻りください』


「猫さん、戻らなかったらどうなるの?」


彼女は小さいため息をつくと言った。


「世界を観る権利を失う。そして、段々と世界から消えるわ」


再びの沈黙にアナウンスが響く。


『また、春一番が吹くため列車が揺れることがございます。十分にお気をつけくださいませ』


ビュオッという轟音が聴こえた後、桜吹雪とともに車体が大きく揺れた。


気がつけば吊り革は春のリースになっている。


列車の汽笛が鳴る。

聞いたことの無い、軽やかな音。


車窓からは『春一番駅』の文字が視えた。


ふと見やると猫は隣で丸まっていた。

彼女は降りないのだろうか。


「猫さんは降りないの?」


すると彼女は不思議そうに首を傾げた。


「新入りは降りるのかい?」


「うん」


そう答えると彼女はしかたないとでも言うように長椅子からするりと降り、スタスタと足早に私を先導する。


その姿を見て首を傾げた私に彼女は振り返る。


「新入りが24時間で戻れなかったらわたしが困る」


その意味は分からなかったが、素っ気ないように見えて実は心配してくれているその気持ちはよく伝わってくる。


廻季列車のドアが開く。

春の匂いが舞い込んでくる。


また違う一歩。

今回は春を探しに行くのだ。


小さなお供を連れて、私は桜吹雪に飛び込んだ。

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