第8話 エンジェルさま
「お疲れさまっしたー。交代でーす」
そう言いながら指揮室のドアを開けると、ハセさんとヤマダくんが出迎えてくれた。
「おう、ねもっちゃん。やっと交代の時間か」
回答者席に座っていたハセさんが疲れた顔で俺を振り返る。
「おい、ヤマダ。ねもっちゃん来たから交代の準備」
「ういっす」
調査担当席に座るイケメンのヤマダくんが、がさがさと筆記用具を片付け始める。
「あ、そういえば」
ヤマダくんは思い出したように俺を振り向いた。
「ネモトさん、今日の話聞いてます?」
「え? 何?」
「あれ。係長、何にも言ってなかったっすか。朝の指示で伝えてくださいって言っといたのになー」
「聞いてない聞いてない」
俺は首を振る。嫌な予感がする。
「なになに、怖い怖い」
「サノさん、今日ダウンっす。熱、40度いったって」
「うそ。コロナ?」
「まだ分かんないですけど、病院は今日これからって言ってました。可能性はインフルと半々って感じっすかね」
そう言いながら、ヤマダくんはまたデスクの上を片付け始めた。
ハセさんの方のデスクは、俺が来る前からとっくにきれいになっていた。仕事道具は、足元のくたびれた黒いカバンにさっさと詰め込んであるのだろう。
「えー、サノさんいなかったら、今日の調査担当は?」
そう言ったところで、ヤバい可能性に思い至る。
「え、まさかワンオペとか言わないよね。そんなの絶対無理だから。それならヤマダくん残ってよ、お願い」
「無理無理。今日、俺デートですもん」
「ヤマダはモテモテだからな」
ハセさんがにやにや笑う。
「いや、冗談抜きで頼むよ。マジで」
俺も必死だ。
一度だけワンオペしたことがあるが、あれは地獄だ。
絶対に誰か相棒が要る。
「大丈夫ですよ、ネモトさん」
俺の焦りっぷりをニヤニヤしながら見ていたヤマダくんが言った。
「ウスイさんが入ってくれるそうです」
「ウスイさん? え? ウスイさんってあの一本指打法の?」
「はい」
「噓でしょ?」
ハセさんもヤマダくんも嬉しそうにニヤニヤしている。
いや、ウスイさんはだめだ。あの人は昭和の人だ。
「嫌だよ。それなら俺、ワンオペするって」
そう言ったとき、ドアがガチャリと開いた。
「ういーっす」
入って来たのは樽みたいな体型の、薄い白髪頭のおっさん。
「あ、ウスイさん」
「おう、ネモト。今日よろしくな」
「あ、お願いします……」
俺が強ばった挨拶をしている間に、ヤマダくんはさっと立ち上がって、自分の席をウスイさんに譲る。
「ウスイさん、どうぞ」
「おう」
片手を上げて、ウスイさんはどかりと椅子に座る。椅子が、ぎいっと悲鳴を上げる。
「俺、調査担当の席に座るの久しぶりだからよ。ネモト、今日は頼むぜ」
「あ、はい。こちらこそお願いします」
ハセさんとヤマダくんはニヤニヤしながらカバンを持ち上げた。
「じゃ、頑張って」
ハセさんが俺の肩を叩いた。
「お願いしまーす」
ヤマダくんが意気揚々とドアを開けて出ていった。
幸い、午前中はほとんど仕事はなかった。
俺は、ウスイさんの令和的には百パーアウトの昭和的武勇伝を聞きながら、時間を潰した。
ぴこーん。
昼過ぎに、受信ランプが点いた。
「お」
ウスイさんが嬉しそうに笑う。
「昼休みにコックリさんやる子がいるのか」
「ウスイさん、エンジェルさまです」
「ああ、社名変わってんだよな」
モニターに映し出されたのは、小学校高学年くらいの女子三名。空き教室のようなところで白い紙を広げている。
「今の紙ってきれいだよなー」
そう言いながら、ウスイさんが背もたれに寄りかかる。椅子は、きいっと悲鳴を上げる。
「俺らの頃はさ、コックリさんに使う紙はみんな藁半紙っていうやつでさ。ネモト、知ってっか? 藁半紙」
「あ、はい。知ってます」
紙を見るたびにウスイさんが同じ話をするので、藁半紙の現物を見たことはありませんが、すっかりその名前は覚えてしまいました。
『エンジェルさま、エンジェルさま』
モニターの向こうで女の子の一人が呼びかけてくる。
その手には、一本の鉛筆。
それを女子三人が握っている。
「昔は十円玉だったんだけどねえ」
ウスイさんが懐かしそうに言う。それも二百回くらい聞いた。
『いらっしゃいますか。いらっしゃいましたら、はいの方へお願いします』
紙には油性ペンで『あ』から『ん』までの平仮名と『はい』『いいえ』の二つ、それから大きなハートマークが書かれている。
「あのハートマークも、コックリさんのときは神社の鳥居のマークでさ」
知ってます。それも二百回くらい聞いたから。
俺はマイクに顔を近付けた。
「モニター1、鉛筆を『はい』に移動」
少女たちの握る鉛筆がずずずっと動き始め、三人は、
『きゃあ、動いた!』
などと悲鳴を上げている。
鉛筆が『はい』で止まると、またさっきの少女が口を開いた。
『“Be Strong”の
「ウスイさん、質問来ました」
「あいよ」
ウスイさんはキーボードに手を乗せる。
「えーと、なんだっけ? びーあんびしゃす?」
「Be Strongです」
「び、い、す、と、ろ、ん、ぐ」
出た。一本指打法。
文字を打つのに右手の人差し指一本しか使わないという孤高の技術。その伝承者は平成で絶えたという。
「の、誰だっけ?」
「加修棋理兎です」
「ええ?」
ウスイさんはあからさまに嫌そうな顔をした。
「最近の芸能人はおかしな名前のやつが多いよな。く、わ、え、る。変換。バックスペース、バックスペース、バックスペース、あれ、全部消えた」
「ウスイさーん」
「うるせえな、待てって。十円玉ぐるぐるさせといて」
十円玉じゃねえ。鉛筆だって言ってんだろ。
「モニター1、鉛筆を『はい』と『いいえ』の間で往復、別途指示があるまで」
俺の指示に従って、鉛筆が動き始める。
『エンジェルさま、迷ってるー』
『ええー、付き合っててほしくないんだけどー』
女子たちは楽しそうだ。これなら時間が稼げそうだ。
「し、よ、う、ぎ。あれ? 使用儀? 将棋って出てこないんだけど」
「ウスイさーん」
「だから待てって」
ばしん。ばしん。
ウスイさんの一本指打法は力が強いのも特徴だ。キーボードに穴が開くくらいの力を込める。
「よし、打てた!」
ひときわ大きな音を立ててエンターキーを破壊するかのように押したウスイさんは、満足げに検索結果を見た。
「あれ? 出てこないぞ」
「あ、その上のやつクリックしてください。“もしかして:”ってやつ」
一文字二文字間違っても、ネットは対応してくれるからありがたい。
「これか? あ、出た出た。えーと。六月まで付き合ってたけど、今はもう別れててお互いに別のパートナーいるってさ」
「了解です」
俺はマイクで指示を出す。
「モニター1、『いいえ』に移動」
『いいえ、だって!』
『よかった、付き合ってないんだ!』
少女たちが喜んでいる。よかったよかった。
『次、私ね。えーと、エンジェルさまエンジェルさま、3組のスダ君の』
『え、それ聞いちゃうの!?』
『やだぁ』
楽しそうで何より。
『3組のスダくんの好きな人、教えてください』
「ウスイさん、Y市立第三小学校五年三組のスダくんの好きな人」
「はいよ、スダくんな」
ばしーん、ばしーん。
「モニター1、『はい』と『いいえ』の間の往復、しばらく継続で。別途指示を待て」
ばしーん。かたかたかた。
「あ、全部消えた」
「……」
ばしーん、ばしーん。
「あれ?」
「……」
ばしーん、ずしーん。
「あ、そういうことか」
「……」
ずごーん、どーん。
「ネモトぉ。もうそっちで適当に答えてくれねえか?」
「だめです」
俺はそういうことはしない。
「子供たちがウスイさんの答えを待ってるんですよ。俺たち大人はちゃんと仕事しましょうよ」
「真面目だな、ネモトは」
ばしーん。
「まあ、俺もそういうの嫌いじゃないけどな。若い頃は俺も」
ずしーん。
「上司とそれで揉めてよ。コックリさんってそういうもんじゃないでしょう、なんて言ってさ。あの頃は俺も青かったよな。今なら上司の言わんとしてることも分か……お。こうか」
ばん、ばん、ばん。ばしーん。
「出たぞ」
「はい」
「スダくんの好きな子は、四組のナカムラミナコちゃんだ」
「了解でっす」
俺は鉛筆に指示を出す。
「モニター1、み、な、こ、の順に移動」
『あ、動き出した!』
『み、な、えー、うそ。みなちゃんじゃん!』
『え、あたしー!?』
違う。少女たちよ、慌てるな。
『あ、まだ動く!』
『こ、だって』
『み、な、こ。四組のミナコちゃんのことじゃない!?』
『あ、そういえば去年スダくんと同じクラスだった!』
少女たちはきゃいきゃいと騒いでいる。
楽しそうで何より。
・・・。
『エンジェルさまエンジェルさま、お帰りください』
「モニター1、ハートマークに移動。その後、稼働を停止」
『帰ってくれたー』
そんなこんなで、昼休みの仕事はなんとか終わった。
「ふいー」
俺が指揮報告書を打っていると、またウスイさんが昔語りを始めた。
「やっぱりコックリさんの時代はよかったよな。いろいろとアバウトでさ。今ネモトが打ってる報告書なんか、昔はほとんど手書きで一行よ。内容に“色恋”とか“ゴシップ”とか書いてな。それで決裁だって通るんだから。ひでえ先輩だと“全員呪殺”とか書いてたな。がはははは」
ああ、昭和。全然笑い事ではない。
「昔はネットなんかなかったからよう。分かんない質問されたときは、とりあえず“し”と“ね”を往復させとけって先輩には教えられたもんだよ。そうすっと勝手にビビって終わりにしてくれるからな」
「まあそういうのが時代に合わなくなってきたんで、うちも社名変更したわけですよね……」
「今はもう、呪殺もしちゃだめだもんな。あまりにも躾のなってない子供は、やってもいいと思うんだがなあ」
「だめです」
「あ、でもこの前、ノダ部長が若社長に“エンジェルさまなんだから、呪殺はだめでも昇天はありなんじゃないですか”って意見具申してたな」
「なんでうちの古い人たちって、みんな殺したがるんですか」
「なんでだろうなあ。やっぱり昔の癖が抜けないんだろうなあ」
ああ、やだやだ。
俺はそういうことはしない。
エンジェルさまは、いつでも子供たちの夢と好奇心に寄り添う存在でありたいのだ。
それからウスイさんはふらっと出ていって、一時間もしてからコーヒー片手に帰ってきた。タバコの臭いがぷんぷんするので、どこに行っていたのかは聞くまでもない。
「ほらよ」
俺が飲まないブラックのコーヒーをくれた。
悪い人ではない。決して。
「ウスイさん、そろそろラッシュアワーっすよ」
「あいよ」
ウスイさんはコーヒーをぐびりと飲む。
「まあラッシュって言っても、最近はせいぜい二、三十件くらいだろ? 昔はほんとすごかったからな。一日百件なんてざらだよ、ざら」
はいはい。
ぴこーん。
「あ、来ましたよ」
ぴこーん。ぴこーん。ぴこーん。
いっぺんに来た。
いくつものモニターが一斉にそれぞれの画面を映す。
全国各地の小学校や中学校の教室。やっているのはほとんど女子だが、たまに男子。
放課後。それはエンジェルさまの最も忙しい時間帯だ。
『エンジェルさま、エンジェルさま』
『エンジェルさま、タカキ君の好きな人は』
『私はBe Strongのライブに行けますか』
『来週のアルマークはどういう展開になりますか』
『明後日の給食の献立は』
さあ、ここからは戦場だ。
「質問来ました、行きますよウスイさん!」
「おう、任せろ」
そのとき、ウスイさんの出っ張った腹が缶コーヒーを倒した。
「あ」
「え、ちょ」
「あれ、パソコン動かないぞ」
「な、何やってんすかー!」
その日、全国の小中学校の空き教室では、
「今日、エンジェルさま来てくれなかったね」
という囁きが交わされたという。
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