第6話 心霊物件

 

 その部屋の家賃が他の部屋よりも安かった理由が分かった。

 引っ越して三日目に、早くも嫌な予感がしていたのだ。

 きっかけは、隣人に挨拶に行ったことだった。

 右隣は空き部屋。左隣の部屋は、表札に差し込まれた紙にサインペンか何かで「内山」と書かれていた。

 引っ越した当日はもう時間も遅かったので、挨拶は翌日に回したのだが、いざ訪ねてみると不在だった。

 三日目、今日出てこなければもう諦めようと思ってまた隣室を訪ねると、出てきたのはちょうど俺と同い年くらいの若い男だった。

「今度引っ越してきた者です」

 そう挨拶すると、訝しげだった男は「ああ」と合点のいった顔をした。

「そうか。おたくが引っ越してきたから、隣からがさがさって音がしてたのか」

「すみません、うるさかったですか」

「いや、別にいいんだけどさ」

 男は俺の差し出したタオルをつまらなそうに受け取って頭を掻いた。

「ここ一週間くらいずっとがさがさしてたでしょ。結構荷物多いんだね、まだ片付かないの」

 ここ一週間……。

「あ、いえ」

 俺は小さく首を振った。

「引っ越してきたのは三日前です」

「三日前?」

 男はちょっと目を見張った後で、何かを悟った顔をした。

「そうか。じゃあ内装の業者でも入れてたのかな」

 まるで棒読みみたいな、妙な言い方だった。

 自分でそう言っているくせに、男自身がそんなことは信じていないことがまるわかりだった。

 俺だって、そんなはずがないことくらい分かっていた。

 一か月前、不動産屋からこの部屋を見せてもらったときには、もうすっかりきれいで、内装の業者を呼ぶような必要はどこにもなかったからだ。

 微妙な空気のまま、隣人は部屋に引っ込み、俺も自分の部屋に帰った。

 事故物件である、というような説明は受けていない。

 家賃は安かった。

 だが、事故物件というほどの安さでもない。他の部屋に比べて数千円だけ安い。ちょっと日当たりが、とか階段までの距離が、とか言われれば納得できてしまう程度の差だ。

 不動産屋は、前の住人が半年くらいしか住まなかったと言っていた。

 都会ならそんなこともあるだろう、とそのときはさして気にしなかったが、今になってみるとそこに重大な意味が隠されていたような気になってくる。

 そして、それはやってきた。

 深夜。

 ふと目を覚ました。

 何かの気配を感じた気がしたのだ。

 時間を確認しようと枕元のスマホに手を伸ばした時だった。

 そいつは、いた。

 俺の顔を覗き込むように身を屈めていた。

 作業着のようなものを着た、三十代くらいの男。

 窓から微かに差し込む街灯の明かりで、その顔は影になっていて見えなかったが、胸のあたりがべっとりと汚れていた。

 これは……血、だ。

 俺がそれに気付いた時、男が口を開いた。

 俺はとっさに目を閉じた。

 耳も塞ぎたかったが、大きな動きをしたくなかった。

「……や……はせ……で……」

 途切れ途切れに、男が何かを言った。

 まるで地の底から響いてくるかのような嗄れ声だった。

 俺は目を閉じたまま、心の中で念仏を唱え続けた。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 成仏してください、成仏してください、どうか成仏してください。

「……や……はせ……で……か……」

 もう一度何かを言った後、男の気配がふっと消えた。

 俺はそれでもしばらく目を閉じていた。意を決しておそるおそる目を開けると、もうそこには誰もいなかった。



 やられた。

 完全に出る部屋だったのだ。

 翌朝すぐに不動産屋に電話して、この部屋が事故物件ではないかと問い詰めた。

 不動産屋は、この部屋の住人がかなり早いサイクルで引っ越していくということは認めたものの、事故物件であるということは決して認めなかった。

「そちらのアパートが建って以来、今までにその部屋で人が亡くなったりしたことはありません。今どうしているのかまでは分かりませんが、少なくとも以前の居住者の方は皆、その部屋から生きて引っ越されています」

 そう言い切られると、こちらもそれ以上何も言えなかった。

 事故物件、という言い方が良くなかったのかもしれない。

 この部屋は、心霊物件だ。

 だが、幽霊が出るから、という理由では解約はできないだろう。日本の法律は、幽霊の存在を認めていない。引っ越しをするとしても、費用は全部自分持ちだ。

 結局、経済的理由により、俺は引っ越しを思いとどまった。

 その夜は男は現れず、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 だが男はその三日後にまた俺の枕元に突如として現れ、何かを囁いてきた。

「……や……はせ……んで……か…」

 俺はすっかり参ってしまった。

 男は概ね三日おきくらいで現れた。

 憔悴しきった顔で、社食で昼飯を食っていた俺を見て、先輩の友川さんが声を掛けてきた。

「どうした、最近顔色悪いぞ。何か悩みでもあるのか」

「あ、友川さん。いえ、その……」

「仕事のことか。係長に何か言われたのか」

「そういうのじゃなくてですね」

 自分が心霊物件に住んでいるとは言えなかった。変な噂が立って気味悪がられるのはごめんだ。

「ちょっと、その、プライベートのほうで」

「誰かとトラブってるのか」

 友川さんは腕を組んだ。

「彼女か」

「いえいえ」

 性別からして違う。

「まあ、あれだ。誰かとの意見の食い違いってのは、家族だろうが恋人だろうが隣人だろうが結局のところ、お互いに相手の言い分を聞かないところから始まるからな。まずは相手の言いたいことをよく聞いてみるこったな」

 友川さんはそんな当り障りのないアドバイスをくれた。

 ……相手の言いたいこと、か。

 友川さんが行ってしまった後、何となく思い出した。

 あの男が枕元に立つたびに嗄れ声で呟いている言葉。

「……や……はせ……んで……い……か…」

 あれは、何と言っているのだろうか。

『ここは俺の家だ、さっさと出て行け』とか、どうせそんな内容だろうと勝手に思っていたが、言われてみればそうとも限らないわけだ。

 他の可能性だってある。

『生きている人間が憎い。お前を呪い殺してやる』的な内容とか。

 それとも、『誰それに殺されたから無念を晴らしてくれ』的なやつとか。

 もしくは『俺の死体はどこそこのダムに沈められてるから見付けてくれ』的なのとか。

 まあいずれにしても、ちゃんと聞いてもろくなことにはならなそうだが、もしかしたら話を聞いて望みをかなえてやることで成仏してくれる可能性もあるかもしれない。

 どうせ経済的にまだしばらくはあの部屋に住まなければならないのだ。

 だめもとでやってみよう。

 そう思った。



 果たして、その日の深夜、男は現れた。

「や……はせ……んでい……か……」

 またぼそぼそと喋りかけてくる。

 何を言ってるのか、全然分からん。

 いつもこいつが出てくるときは、俺は固く目をつぶって念仏を唱えていたのだが、今夜は違う。思い切って、かっと目を開いた。

「声が小さい!」

 恐怖をごまかすため、叫ぶように言った。

「何言ってるか分かんない!」

 さあ、どうする。どうなる。

 幽霊の怒りに触れたら、取り殺されたりするかもしれない。正直、死ぬほどおっかなかったが、男の言葉が判明するわずかな可能性に賭けた。

 嫌な静寂。

 これは、やってしまったのか。


「……めん…」


 ん?

 いま、ごめんって言った?

 いや、そんなわけないか?

 幽霊が謝るなんて聞いたことないし。

 で、でも今確かに。

 俺が混乱していると、さっきより気持ち大きな声が耳元で聞こえた。

「やち…はせ…んでい…すか…」

 な、なんて?

「ごめん、もう少し」

 俺は右手を挙げて親指と人差し指で『もう少し』のジェスチャーをする。

「もう少し、大きく」

 すると、今度こそはっきりと男の言葉が聞こえた。

「やちんはせっぱんでいいですか」

 ……え?

 やちん?

 家賃は、折半?

 家賃は、折半でいいですか?

「あ、はい」

 思わず頷くと、男の姿はすうっと消えた。



 翌朝、枕元には一万円札と千円札が数枚ずつ置かれていた。

 合わせると、家賃のちょうど半額だった。

 その日から、男が枕元に立つことはなくなった。

 ただ、月末になると必ず俺の枕元には家賃の半額の現金が置かれるようになった。

 廊下でたまたま顔を合わせた隣室の内山にそれとなく聞いてみたところ、今でも俺の留守の時間帯にごそごそという音が聞こえているようだ。

 男は男で、あの部屋で生活しているのだろう。

「お、最近元気そうだな」

 社食で友川さんにそう声を掛けられた。

「なんか、羽振りもいいらしいじゃん。副業でもしてるのか」

「いや、全然ですよ。何もしてません」

 そう言ってから、俺は感謝を込めて友川さんに頭を下げた。

「そんなことより、ありがとうございました。友川さんのアドバイスのおかげで解決しました。やっぱり相手の言い分ってちゃんと聞かないといけませんよね」

「だろ?」

 友川さんは少し得意そうに笑った。





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